共にいる未来(あした)

志水×日野

 あまり、未来のことは考えていなくて。
 かといって、別に刹那的に生きているわけでもなくて。

 でもそれは、無理に決めるべきものではないと思うから。
 今はまだ、見つかるその瞬間を待っている。




 図書室で、向かい合って本を広げながら、香穂子は志水に気付かれないように、こっそりと溜息をつく。
 レポートを書くために積み上げた資料の下に、こっそりと忍ばせた一枚の紙片。「進路調査書」の味気ない五文字が上段に並ぶ、薄っぺらな紙。
 まだそこに、書き記すべき未来が見えていなくて。
 たったそれだけの、ささやかな存在が目の前にあることが、香穂子の気を滅入らせた。

 もう少し前なら、迷う余地がなかった。
 成績は中の上から下の間を行ったり来たり、スポーツもそれなり。
 これといって特出したものがない香穂子が決める未来は、限られていて。
 何の猶予もなく働くのも勿体無いから、通学の距離と学力に折り合いがつく、短大か、専門学校にでも行って。
 自分に合いそうな職種を探し、働いて。……多少は、兄のように県外の学校を選んで、一人暮らしと言う冒険もして……そのくらいが、香穂子の想像の限界だったのに。

(音楽科へ、編入してみないか)

 学内コンクールに参加して、一変した香穂子の生活。
 コンクールが終了して、音楽科の教師から言われたその言葉が、香穂子の心を迷わせている。

 ヴァイオリンは、続けて行きたい。
 そのためには、信頼出来る師も必要だ。今までがそういう世界と関わりがなかった香穂子だったから、音楽科の教師の誘いも、本当はありがたく思うべきなのだろうけど。
 それでも。
 これまで見たこともなかった世界に足を踏み入れること。
 ……その世界を、これからの自分が生きる未来に設定すること。
 どうしても、そのことが躊躇われて。

 だって、ヴァイオリンを続けて行くことで、自分にどんな未来が待っているかなんて、想像もつかない。
 確かに選択肢は広がっているのかもしれないけど。ヴァイオリンを弾き続けた先にある『何か』なんて、香穂子は知りようもないから。

 ヴァイオリンに出会う前の未来は、ひどく平凡だったけれど、平凡であるが故に、形が見えた。だからこそ、退屈だとは思っても、そこに辿り着くことを怖がったりなんてしなかった。
 だけど、今ヴァイオリンを弾く香穂子が目指す未来は、真っ暗だ。何があるのか分からなくて。想像すら、できなくて。
 ……深みに足を取られそうで。……怖い。

「……香穂先輩」
 ぽつ、と小さな声が香穂子の名を呼んだ。
 はっと我に返って顔を上げると、向かい側に座る志水が、気遣うような表情で、眉根を寄せて香穂子を見つめていた。
「大丈夫ですか?」
 小さく首を傾げて尋ねる志水の意図が分からなくて、香穂子は口籠る。
 大丈夫。……なんかじゃない。
 だけど、目の前の志水は、そんな香穂子の焦燥を知る術はないはずで。
「大丈夫って……何が?」
 努めて冷静に尋ね返すと、志水が少し大人びた表情で、苦笑する。
「……何か、悩んでる、……みたいです。もしかして、この間僕が、僕の担任の先生から言われたことが、関係してるのかなって」
「担任……」
 言われて、香穂子は思い出す。
 香穂子に音楽科への転科を申し入れて来たのは、その志水の担任の教師ではなかったか。
「あ、あの先生、志水くんにまで、何か……?」
「僕と、香穂先輩が、付き合ってるなら。香穂先輩が音楽科への転科を渋ってるのを、説得しろって」
 そう言われました。と志水が報告した。
 香穂子ははあ、と大きく溜息をついて、思わず机の上に突っ伏した。
(志水くんに言わなくても……)
 ……本当は、意図して。
 志水には、何も言わなかったのに。
「……あ、あの、ね」
 でも、ばれてしまっている以上は。
 それ以上、我慢することも出来なくて。

「志水くんは、私が音楽科に転科すること……どう思う?」

 志水が、香穂子が音楽科に転科する可能性があることを、知っているのならば。
 香穂子は、尋ねずにはいられないから。


 ヴァイオリンから導かれる未来は、今の香穂子にとっては、真っ暗な茨道で。
 踏み出す足を躊躇うと、初めから分かっていたのに。
 それでも、あの教師の申し出をきっぱりと断れなかったのは。
 ヴァイオリンと歩く未来には、おそらく、志水の存在も近くにあるからだ。

 もちろん、学年も違えば、選択する楽器も違うのだから、取り立てて何が変わるということもないのだろうけれど。
 それでも、ほんの少しだけでも。
 志水の近くにいることができるから。

 不純で、不真面目で。
 どうしようもない、思いだけれど。
 その思いが、心のどこかにあるからこそ、香穂子は即断であの教師の申し出を拒否出来なかった。


「……僕は」
 上目遣いで、志水の答えを待つ香穂子の視線の先で。
 一度、思案するように空に視線を巡らせた志水は、もう一度、香穂子の目をしっかりと見つめ返して。
「僕は、どうでもいいです」
 と言って、笑った。
「ど、どうでも、いい……」
 愕然と香穂子が呟き。
 ……まあ、それはそうだよねと、苦く笑った。
 香穂子がどこにいても、何をしていても。
 きっと、彼がチェロを弾く人生には、何ら関わりがないのだろうから。

「先輩?……誤解、しないでくださいね?」
「……え?」
 増々項垂れた香穂子に、小さく笑って志水が告げる。
 探るように、机の上を指先で辿って。少し無理をして伸ばした片手に、香穂子の手を捕まえる。
「……先輩が。普通科にいたって、音楽科にいたって。僕は、どうでもいいんです。……もちろん、音楽科にいてくれたら嬉しいけど。……少しでも近くにいてくれたら、嬉しいけれど。そんな気持ちを、先輩に押し付けたら、いけないから」
 志水は知っている。
 楽しいという気持ち一つで、音楽を続けていくことは、困難なこと。
 弾くだけではなく、学びながら、葛藤しながら。
 ……そんなふうに、嫌な面も受け入れなければ、音楽という世界に浸ることは、辛いのだということ。
「専門の楽器だけでなくて、副科の楽器も選ばなきゃいけないし。音楽に携わる職業って、狭き門だと聞きますし……」
 志水には、その覚悟がある。
 そういう負の面を受け入れてでも、知りたい音の世界がある。
 だけど、香穂子は。
 そんな、綺麗なだけではない世界に、彼女が足を踏み入れてしまったら。

「……先輩が、どこにいるか、より。この先ずっと、変わらずヴァイオリンを続けていてくれることの方が、僕には、ずっと、ずっと大事です」

 本当は。
 遠い未来の自分たちなど、志水にだって想像が出来ない。
 それが自分であろうと、香穂子であろうと。
 今から、十年後、二十年後の自分たちが、どこでどんなふうに生きているかなんて、今、ここで考えることなんて、無意味に近い。

 明日ですら、分からないのに。

 だけど、辿り着きたい未来がある。
 こうであって欲しいと願う、光景がある。
 漠然としていて、曖昧で。
 触れられない。そんな、志水が描く未来は。
 ただ、香穂子と共に、音楽に触れている。
 それだけの、未来。

 明日も、その次の明日も。
 二人で近くにいて。
 香穂子はヴァイオリンを。
 志水は、チェロを弾いていて。
 そうして、そんなささやかで、そして幸せな毎日を。
 積み重ねて、辿り着く未来。

「……僕には、何も言えません。ただ、一つだけ、先輩が僕のお願いを聞いてくれるなら。……ずっと、ずっと、先輩がヴァイオリンを離さずにいられる。そんな道を選んで下さい」
 それが、今まで通り、普通科で生きる香穂子でも。
 音楽科で、志水に少しだけ近い場所で生きる香穂子でも、どちらでも構わない。
 ただ、明日も。その次の日も。
 志水のために、ヴァイオリンを弾いていてくれる、香穂子であるのなら。


「……うん」
 微かに頬を染めて。
 自分の手を握る志水の手に、もう片方の掌を重ねて。
 志水の目の中を、しっかりと見つめ返す香穂子が、大きく頷いた。
「まだ、迷うけど。……悩むけど。ちゃんと、自分自身の意志で、選ぶよ」

 香穂子らしい道を。


 遠い未来は見えなくて。
 なりたいものも、目指したい場所も、今はまだ朧げなまま。
 それでもたった一つ、ずっと胸に抱き続けたい想いがある。
 辿り着く『いつか』に、その想いを持ち続けたままでいられるなんて、保証はないけれど。
 一足飛びに、遠い未来に辿り着かないのならば、一歩一歩を繰り返す。
 志水と香穂子。二人で共にいる幸福な毎日を。
 一日、一日、積み重ねて。

 共にいる、『未来』へと辿り着く。




あとがきという名の言い訳 

意外なのかそうでないのか分かりませんが、渡瀬にとって、志水はこういう印象です。
独立した世界を持っているだけに、他の人の世界も尊重するというのか。「こうして欲しい」という希望くらいは持つんでしょうけど、それを選ばなくてもお構いなし、みたいな。どこに基準を置くかの決断を、しっかりとしていそうなイメージです。
何か、皆さんのイメージと違ってましたら、申し訳ありません(><)

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