ふわりと瞼を持ち上げると、目の前に落ちて来た白いひとひら。
一瞬、雪が降って来たのかと思って、一つ瞬きをして。
そうして、頬に落ちたひとひらが、いつまでも融けないことに気付いて、指先を伸ばしてそれを手にとった。
光にかざしたそれは、真っ白の花弁。
風に舞う花。
「志水くん、桜に埋まっちゃうよ?」
冗談のような言葉を至極真面目な口調で言い、香穂子は芝生の上に両膝をついて、その場に寝転がったままの志水の顔を覗き込む。
まだ、浅い眠りから覚めていない、志水のぼんやりとした眼差が、ゆっくりと香穂子の方を向いた。
「……桜?」
「うん、桜だよ。今日は寒いけど、花はもう満開だね」
にっこり笑い、香穂子が少し離れた場所にある、咲き誇る桜の樹を見つめる。香穂子の目線を追って、その桜に視線をやった志水は、小さな溜息をついて、もう一度瞼を閉じた。
「……雪じゃなかった」
ぽつりと呟く。
優しい陽光。澄んだ色の空が見上げた視界を一面に覆う、肌寒い春の一日。
こんな日に空から舞い落ちる花弁なら、雪の六華が似合うと思うのに。
「うーん、いくら寒くても、もう四月だから、さすがに雪は難しいと思うけど……。それにしても、何で雪?」
香穂子が小さく首を傾げて尋ねると、志水はのそのそと身を起こしながら、香穂子の顔を覗き込むようにして見る。
「香穂先輩……『風花』って……見たことありますか?」
活字に目を通していると、日本語がとても綺麗なものだということが分かる。
言ってしまえば、ただ晴れた日に舞う雪という現象を。
風の花と例える先人の心に、志水は感銘を受ける。
陽光に輝く雪片は、花が舞うように見えるのだろうか。
そう、それは。
まるで、桜が降るように。
「……見てみたいなあ……」
香穂子の返答を待つことなく、志水は夢見るような口調で、柔らかく呟く。
空を舞う花びらに視線を向け、それを通した別の物を見つめようとする志水に、香穂子は苦笑する。
巡り巡って、全ては彼が生み出す音楽のために。
志水は貪欲に、何もかもを知ろうとする。
この世の中の、鮮やかなもの、儚いもの。そして、綺麗なものを。
……だけど。
「ねえねえ、志水くん」
香穂子の呼ぶ声に、志水がもう一度視線を香穂子に戻す。
ほんの数十センチ。手を伸ばせば届く距離で、香穂子が笑った。
それは、とても綺麗に。
「それは、本物じゃなきゃ駄目?」
「……え?」
香穂子の問の意味が分からない志水が首を傾げると、香穂子の指先が、舞い落ちる桜の花弁を指し示した。
「雪じゃなくても、充分綺麗だよ」
もう、滅多に雪が積もることもなくなってしまった近頃では、本物の風花を見ることは、なかなか叶わなくて。
『見ることが出来ない』ものを願う。
『見ることが出来ない』からこそ、願う。
だけど、本当は。
それがなければ、どうにもならないというほどに、大切なものなんかじゃない。
綺麗なものは、……必要なものは。
もっと他に、きちんとある。
陽光に輝く雪片の降る様を。
『風の花』と名付けた人だって。
本当に願っていたものは。
今こうして、自分達が見つめている、本物の花弁だったのかもしれないのだから。
「……そうですね」
香穂子の言葉に、一瞬虚を突かれて。
もう一度、自分の目の前に降りて来た花弁を見つめ、そして、志水は香穂子に向かって微笑んだ。
「もう、充分に。……綺麗なのかもしれない、です」
そういえば。
桜の花弁が大量に降る様も。
桜『吹雪』と名付けられてるんだな、と。
そんなことを思いながら、志水は手を伸ばし、香穂子の手をそっと握る。
手の中の温もりと。
目の前にひらひらと降る、風に舞う花と。
そして、自分へと微笑み返してくれる愛しい人が側にいれば。
この世界は、素晴らしく。
限りなく美しい。
あとがきという名の言い訳
本物にこだわる志水と、綺麗ならいいじゃん、と大雑把な香穂子(笑)
「風花」というものは雪が降る場所でないと見れるものではないので、本物は諦めてもらいました。あとは書いた時期に合わせて桜を書こう!みたいな(笑)


