こんなふうに心を掻き乱すのか、分からない。
でも、それだからこそ。
……分からないからこそ、余計に気になるのかもしれない。
そんなことを、ふと思った。
どんなに遠くから聴こえるものでも、この耳が捉える範囲に『それ』があれば、頭で考えるより先に、本能的なもので存在に気付く。
……いつからか、気付くようになった。
いつの間に、そんなふうになったんだろう。
どうしてそんなふうになったんだろう。
時折、そんな疑問が脳裏をよぎるけど、寝る間を惜しんで考えてみても、結局いつも答えは出ない。
(いつからだったっけ?)
あの人が奏でる音を、心地いいと想うようになったのは。
喧噪の中に、あの音を見つける度に、もっと近くで、もっと長い時間、聴いていたくて。
……側にいたくて。
あの人の側にいることこそを、心地いいと想うようになったのは。
(……いつからだったっけ?)
そもそも、自分は。
あの人のヴァイオリンの音色が心地いいから、あの人の存在そのものを心地よく想うようになったのか。
それとも、あの人自身が。
……日野香穂子という存在そのものが、心地いいものだったから。
その人が奏でる音をも、心地いいと想うようになったのか。
(……どっちだっけ?)
いつからだったっけ?
どちらが、先だったっけ?
「わー、すっごい夕陽!」
屋上のベンチに腰掛けて、西側の空一面に広がる茜色の風景に、香穂子は感嘆の声を上げた。
東側の空には、群青の夜の闇。寒い季節が近付いているこの頃は、少し練習に集中していると、すぐに夜の気配が忍び寄って来る。
今日も、最終下校ギリギリまで、志水と香穂子は飽くことなく、お互いのチェロの音色とヴァイオリンの音色を重ねることに夢中になっていた。碌に休憩もせずにいたから、華奢な香穂子の横顔にはさすがに疲労の色が現れていたけれど、それでも彼女の横顔は、それ以上に、とても楽しそうで。
その横顔を盗み見る志水も、つられて楽しい気持ちになった。
香穂子に出逢う前から、チェロは変わらずに好きだったはずなのに。
こんな楽しさは、香穂子に出逢うまで、自分は知らなかったような気がする。
……志水が香穂子を想う時。
その甘さに幸福を感じる反面、何故かとても心許なくなる。
足下がふわふわと揺らいで。
立っていられないような感覚になる。
それはきっと、彼女のことを考える時には、いつだって明確な答えが出ないからだ。
どうして、彼女の音色に惹かれるのか。
どうして、彼女の側にいることが心地いいのか。
自分は、その答えが分からないから。
「よし、じゃあそろそろ帰ろうか?」
夕焼けを背に振り向いた香穂子は、志水にそう告げてにっこりと笑いかけた。
先程まで二人で奏でていた楽曲を鼻歌で歌う香穂子が、愛器を片付けはじめるのを見つめながら、志水ものろのろと自分のチェロを片付けはじめる。
屈託なく自分に向けられる笑顔は、とても嬉しくて。
でも、もう帰らなければならないことが淋しくて。
こんなふうに矛盾する心を、志水は今まで知らなくて。
どうしようもなくて、戸惑うのだ。
「……香穂先輩」
背中から射す西日で、二人分の陰が長く伸びる。
その天辺の、頭の部分に視線を止めたまま、肩を並べて歩く香穂子に、志水は小さく問いかけた。
「……先輩は、自分の気持ちが分からなくて、不安になったことってありますか?」
「ええ?……ううーんと、どうかなあ……?」
唐突な質問にも関わらず、香穂子は深く頓着することなく、生真面目に志水の質問について考えを巡らす。
まず、そのことが志水の心を暖かくする。
周りの友達も、血を分けた家族ですら、自分の不規則(らしい)なペースには、困惑することが多いから。
「気持ちが分からないってこととは違うかもしれないんだけど、『何でかなあ?』って考えることはあるよ」
「……『何で』……?」
「うん」
志水が少し下に目線を下ろすと、微笑んだ香穂子の横顔が、大きく頷いた。
「何で、私ヴァイオリンなんかやってるんだろうなあって」
始めたばっかりなんだよ、と。
いつか、告白してくれたことがあって。
やりたくて始めたことじゃなかったんだと教えてくれた。
それでも。
今ではもう、ヴァイオリンを弾かない自分を考えられないのだと。
……言ってくれた。
「上手く行かなくて、苦しかったり、辛かったり。そういうのもあって。そんな思いしながら、何で私ヴァイオリンなんかやってんだろって迷うんだけど、最後には『しょうがないよね』って納得するの」
そこで言葉を切って、香穂子は志水の方を見上げると。
全開で、笑ってくれた。
「それはもう『好き』なんだから。しょうがないよね!」
内包する、苦悩も矛盾も。
全てをひっくるめて。
ただ、どうしようもなく。
好きだと感じるだけ。
そこに理由があっても。
理由なんてなくても。
……いつの間か、気がついたらチェロを抱えていたように。
自然に、当たり前に。
心の中に、その存在が住み着いていただけ。
苦しくても、辛くても。
どうしようもなく、音楽という世界に惹かれてしまうように。
自分は、いつの間にか。
彼女をどうしようもなく、好きだと感じただけ。
(……もう、それだけなんだ)
何故音楽を愛したのか、今ではもうその原点を知らなくて。
ただ、好きなのだとしか言えないように。
日野香穂子という存在もまた。
志水桂一という存在にとって。
どうしようもなく、好きな人なんだ。
……もう、ただ。
それだけのことでしかないんだ。
あとがきという名の言い訳
志水が意外に理屈っぽいというのは、別の場所でも言ったことがあるんですが。渡瀬の中では、志水と香穂子なら、断然香穂子の方が感覚的です。志水は理由をいつまでも悶々と考えていて、ある日突然開き直りそう(笑)


