『音楽』という、たった一つの。
とてもたくさんのものを内包する、漠然としたものだけだったから。
『かけがえなきもの』
……それが、最終セレクションで与えられた命題。
相変わらず、曖昧で、確固とした一つのものを選ぶには難しい命題だと志水は思う。
これまでのセレクションは、課題として与えられるテーマに照らし合わせて、自分が思い描いたもの、それに一番近い楽曲を選んで来た。
別に、セレクション方法が変わったわけではなく。
この3回分の経験で、自分が選択に何か間違って来たとも思わない。
だけど、この命題で思い浮かぶ『何か』は。
簡単には、志水の脳裏に浮かんではくれなくて。
(かけがえない、もの。……想い)
辞書でこの言葉を探してみると、「かわりになるもののない/ただひとつのたいせつな」とある。
志水にとってのそういうもの。
……音楽と。チェロ。
最初に導きだした答えは。
ほんのちょっと、志水が意図しているものとは、違う気がする。
音楽は、他に代わりになるものがない、大事なもの。
だけど、音楽は、例え志水がこの世からいなくなったとしても。おそらく、変わらずに。誰の側にでも『在る』。
チェロも。
自分の心と、想いを。
一番、表現しやすいと思う、大切な音だけれど。
例えば、ピアノだって。
例えば、ヴァイオリンだって。
……多分自分は、それらの自分のものではない楽器が創り出す音楽を、素直に「素晴らしい」と思えるのだろうし。
ただひとつ。
唯一、絶対の。
そんなふうに、譲れないものって何だろう。
……思いを巡らして、空を仰いだ。
その時。
(……あ、ヴァイオリンの音色)
柔らかく、優しい。
彩りに溢れた、素直な音色。
この世に溢れているどんな旋律とも違う、志水の好きな音色。
その音が。
遠い空から、降り落ちて来て。
志水の全身に注いで。
……満ちる。
(ああ)
考え込んで、引き結んでいた唇を僅かに解いて。
止まっていた呼吸が再開するみたいに、小さな溜息で安堵する。
(……これじゃないかな?)
かわりになるもののない。
この世に、たった一つだけの音色。
志水が志水である限り。
今、志水自身が持ち歩いている、志水の持ち物は、例えば失われてしまっても、自分自身が諦めなければ、きっと、いつか自分の手元に戻って来る。
それそのものじゃなくても、代わりになるものを、多分見つけられる。
だけど、あの音は。
……あの音は、志水の一存でどうこうできる類いのものじゃない。
どんなに愛しくても。
どんなに心地よくても。
あの音は、あの人だけの持ち物だから。
志水の自由には出来ない。……だからこそ。
失えない、無くせない。
何よりも、大切なもの。
(僕の、かけがえのないもの)
心地よく、いつまでも聴いていたいと願わせる。
あの、ヴァイオリン。
……だけどそれは、今、奏でられている力量に届かないうちから。
未熟で、拙くて、『音楽』という形を成していない時から。
ずっと、志水の心を惹き付けていた。
「……だから、きっと。僕のかけがえないもの、は」
その場に立ち尽くして。
首が痛くなるまで、真上の空を見上げる。
ずっと高い場所にいて、ヴァイオリンを奏でている。
その人自身のことを、想う。
音と一緒に降り注いでくる、柔らかな春の陽光の眩しさに、志水は微かに目を細めて、笑う。
「……貴方全部、……なのかもしれない」
今はまだ。
遠過ぎて届かない言葉を。
志水は小さく呟いた。
志水の『かけがえなきもの』。
それに抱く、想い全て。
全部、全部。奏でる旋律に込めて。
きっと、歌う。
それが、きちんと貴方へと届くように。
あとがきという名の言い訳
最終セレのテーマは漫画版より。
あっさり風味なんですが、お題を見た時から志水視点のモノローグっぽいものを書こうかなと思ってました。
渡瀬んちの志水が香穂子に対して持つ気持ちを、まとめられたかな?という点でちょっとすっきり(笑)


