今さら逃げるなんてできっこない

志水×日野

 ここ最近、志水と逢っていない。
 時々入っているメールに返信もしていない。電話も出ない。

(だって、どうしたらいいのか分からない)

 気持ちより先に加速していく、周りの状況に。
 香穂子は、ついて行くことが出来ないから。




「……それで! その先は?」
「先って……別に。それだけ」

 昼休み、友人の天羽に呼び止められたと思ったら、案の定問い質された。クラスメイトの協力を得てまで、頑に志水という恋人の存在を避け続けているのだから、そういう不自然な状況が天羽の耳に入らないわけがない。
 購買で買い込んだ昼食一式とデザートを完備して、屋上で詰め寄られた香穂子には逃げ場がなくて、数日前、練習室で志水に抱き締められたことを白状する羽目になる。抱き締められて、それからどうしたって?と顔に「興味津々」とでかでか書いて尋ねる天羽に、香穂子は頬を染めながらそれ以上は何もないと告げる。

「……いや、ちょっと待ちなよ、香穂。それだけって……ハグだけ? たかがそれだけで、あんた、志水くん避けてンの?……あんた、どこぞの中学生か!?」
 思いきり取材根性丸出しで、メモとペンを両手に持ち構えていた天羽が、呆れてそれらをその場に放り投げる。「だって……」と香穂子が身を縮める。
「まだ、早いっていうか。志水くんと、そういうの、全然想像してなくて……」

 いつものように、一緒に音を重ねて。
 開いた窓から入り込んだ風に、楽譜を飛ばされて、それを拾おうと手を伸ばして。
 バランスを崩して前のめりに倒れそうになったのを、咄嗟に志水が腕を伸ばして、抱きとめてくれた。自分のドジっぷりが恥ずかしくて、照れて誤魔化すみたいに笑って「ごめんね」と謝って。
 それだけで、終わるはずだったのに。
 外れなかった両腕。逃れられなかった強さ。
 ぎゅっと志水に抱き締められて、その後は、頭が真っ白になった。
 いつの間にか、猛ダッシュで一人家路を走っていたけれど、曖昧になった記憶のどこかで、咄嗟に突き飛ばそうとして、突き飛ばせなかったんだけど、腕の力が弛んで、その隙に逃げ帰ったような気がする。
 それから、3日。志水とは逢っていない。
 恥ずかしくて、電話にも出れなくて、メールも返せなくて。
 1日そんなふうに過ごしたら、今度はどんなふうに対応すればいいのか、分からなくなってしまって。
 状況を聞いた天羽に、頭を抱えて、呆れ返った声で「泥沼……」と呟かれて、香穂子は増々どうしていいか分からなくなってしまった。

「……男として見てないってこと? 可愛がるっていうか、そういう感じで見てたの?」
「違うよ」
 天羽の指摘に、弾かれたように顔を上げて、香穂子はぶんぶんと首を大きく横に振る。
 志水のことは、とても好きだ。
 音楽に対する、真摯で純粋な姿勢も尊敬しているし、何よりも、香穂子は志水と一緒にいる時の心地よさを、ちゃんと知っているから。
 香穂子の要領を得ないようなくだらない話も、ちゃんと聞いてくれる。
 真面目に一緒に考えて、悩んでくれる。
 思考は、時々香穂子では繋がらない道筋を辿って、意外な結論を導き出すこともあるけれど、それも志水の愛おしむべき場所だ。
 ……だから、ちゃんと。
 いつかは、そういうふうに、『恋人同士らしいこと』をと、思ってもいたのに。
「でも、まだ。追い付いてなかったの……」
 自分で言いながら、香穂子は泣きそうになる。
 側にいて、話をして。
 時々、手を繋いで。
 香穂子はまだ、それだけで満たされていた。いつかは、段階を踏んで、と思ってはいたけれど、香穂子にとっての『その時』は、『今』ではなかったのだ。
 そして香穂子は志水も『そう』だと、勝手に思い込んでいたのだ。

 言葉尻を震わせて、揃えた自分の両膝辺りに突っ伏しそうになる香穂子に、天羽は頬杖をついて言った。
「まあ、何にしても。それは志水くんに言わなきゃ駄目だよ。避けるのも駄目。だってあんた、志水くんとこれっきりにしたくないでしょ?」
 天羽の厳しい指摘に、香穂子は俯いたまま、大きく頷く。
 天羽は、再度溜息をついた。
「恥ずかしいとか、そういう気持ちもあるだろうけどね? あんたの方に戸惑いがあるのに、志水くんと付き合っていたいなら、ちゃんと理解してもらわなきゃ。別の人間なんだから、かみ合わないのは当たり前。だったら、ちゃんと折り合い付けて、妥協点見つけなきゃでしょ」
「……うん」
 もう一度、香穂子が頷く。
 やれやれ、と苦笑して、天羽は自分のスカートのポケットに突っ込んでいた携帯電話を取り出して、手早くメールを送信する。
「ってことで、放課後に練習室で。あんた、今から行ってどこか予約入れておきなよ」
 ぱくん、と音を立てて携帯のフリップを閉じた天羽に、香穂子が驚いて顔を上げる。香穂が話があるから、練習室に来いって志水にメールしておいたと教えてくれた。
「友達思いな天羽さんは、もちろんネタなんかにはしないからさ」
 軽くウインクされて、香穂子は顔を輝かせる。
「天羽ちゃん……」
「お膳立ての報酬は、駅前の高級ホテルのケーキバイキングで」
「……高っ!」




 少しだけ窓を開けて、空気を室内に通す。
 どきどきしている心臓を落ち着けるために、大きく呼吸した。
(謝らなきゃ。……謝って)
 謝る以外の何をどうしていいのか分からないけれど。
 志水に悪いところなんて、何一つなかったのだから。
 そんなことを考えていると、廊下を全力疾走するみたいな荒々しい足音。防音されている練習室の中にいる香穂子にとって、その騒音は遠いけれど、それにしても随分慌てている人がいるなあと思いながら香穂子は窓の外に視線をやった。
 途端に、背後のドアが大きく開いた。
 びくっとそれこそ飛び上がりそうな心持ちで香穂子が振り返ると、そこには息を切らす志水の姿。
 3日ぶりの志水の姿。
 逢わなかったのは数日なのに、なんだか大人びているようにも見えて。
 ……だからこそ、余計に。自分の幼さが申し訳なくて。
「……香穂、せんぱい……」
 切れ切れの息の合間から、香穂子の名を呼んだ志水に数歩歩み寄って。それから思い切って頭を下げる。

「「ごめんなさい」」

 志水と、香穂子の声が見事にシンクロする。
 きょとんとして顔を上げると、同じように身を起こした志水の顔が正面にある。
 ……多分、今の自分も。こんなふうに、呆気に取られた顔、してるんだろうな、なんて。
 どうでもいいことを、頭の片隅で香穂子は思った。




「先輩の気持ち、全然、考えてなかったなって……」
 練習室の壁際に、ずるずると二人で座り込んで。寄り添い合って、自分たちにしか聴こえない音量の声で離す。躊躇いがちに伸ばされた志水の手を、やはりこわごわの香穂子の手が、緩く握り返す。
「あの時の、自分の気持ちは。やっぱりちょっと、説明出来なくて……」
 困ったように言う志水に、香穂子の胸が少し痛む。

 突然、腕の中に捕らえた香穂子という存在。
 志水が想像していた以上に、華奢で、柔らかくて。
 抱き締めたいな、と思う前に、身体の方が反応して。
 香穂子から突き放されるまで、志水も自分が何をしていたのか、理解していなかった。
 ただ、腕の中の柔らかさと愛おしさを感じていただけで。

 でも、その頭で考える部分にない感情の素直さを、これほど志水は後悔したことはない。
 まさかそのせいで、3日も香穂子に逢えなくなるなんて。

「や、やだ、違うの! それは、志水くんが悪いんじゃなくて」
 香穂子が、幼過ぎたから。

 いつかはと思ってた。
 抱き締めて、抱き締められて。
 口付け合って、その先も。
 全部、志水と分かち合うんだと、漠然と思っていた。
 何だか、うまく香穂子の感情に合わせたタイムテーブルが用意されていて、志水もその計画通りに歩いて行ってくれるんだと勝手に勘違いをしていた。

 だけど、本当は。
 全部、それぞれの中にある、本能の赴くままなんだ。

 それを理解しないまま、『恋愛』に踏み出したからといって、今更そこから逃げるなんて、できっこない。
 だって、そこにいるのは、香穂子だけではないのだから。

「私が、悪いの。私が子どもで、勝手にいろいろなものを志水くんに押し付けて、だから」
 言いかけた香穂子の唇を、微笑む志水が、人指し指で押さえる。反射的に黙り込んだ香穂子に、志水はゆっくりと向き直った。
「……先輩、……抱き締めて、いいですか」
「えっ」
 反射的に後ずさってしまう香穂子だが、志水の手が香穂子の手を掴んでいて、それ以上はどこにも行けない。
 戸惑って、志水の顔を見つめて。
 その表情と、繋いだ手が。
 ……優しかったから。
 うん、と香穂子が頷く。もう一度、小さく笑った志水の両腕が香穂子の背中に回って。
 護られるみたいな、穏やかな抱擁。

「……先輩? もう、謝らなくて、いいですから」
「志水くん……」
「嫌われてなかったんなら、いいんです」

 怒られても、避けられても。
 終わらせられることがないのなら。
 乗り越えたその先に、この恋を続けて行くことができるなら。

 香穂子を包む、志水の存在は、香穂子が想像していたよりずっと、大きくて。
(それが、怖かったのかな)
 冷静になった今なら、そう思える。

 志水が、香穂子の想像以上に。
 『男の人』だったから。
 びっくりして、怖くなって。
 逃げ出したく、なったのかな。
 ……でも。

「……志水くん、私。どこまでできるか、分からないけれど。頑張って、ついて行くからね」




 例えば、それが予測通りの道筋を辿らなくても。
 想像以上に早いスピードで、先を急ぐのだとしても。
 今更、逃げるなんて出来っこない。
 自分にできる精一杯で、追いかけたり、または速度を緩めたりして、バランスを取りながら。
 選びとった道を、進んで行く。

 戸惑おうが、躊躇おうが。
 この恋は、既に。

 走り始めてしまったのだから。




あとがきという名の言い訳 

前回の改装の際に、こちらのデータを紛失しておりました。元々のテキストデータは保管してるんですが、さすがにあとがきまでは残しておらず……。
改めて読み返してみると、私こういう系統の話が好きだなあ、と(笑・他のCPでもよく書いている気がする)。

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