Secret Lover

志水→日野

 何をするでもなく、本屋の入口で突っ立っていると、背後の店内から柔らかな、聞き覚えのある声が志水の名を呼んだ。
 反射的に肩越しに振り返ると、にっこりと笑う日野香穂子が、ひらひら、と片手を振った。

「……香穂先輩」
 回れ右をするみたいに、のんびりと身体の向きを変えて。
「こんにちは」
 と、深々とお辞儀をすると、香穂子は可笑しそうに笑って、「ハイ、こんにちは」と答えてくれた。
「お買い物、ですか?」
「うん、雑誌を見にね。もうお昼になるから、帰るところ。……志水くんは?」
「僕は……はい、僕も、帰るところです」
 専門書を探して本屋に来てみたが、需要が少ないだろうことが災いして、なかなか店内に陳列してあるところは見当たらない。頼めば店員も探してくれるのだろうが、ほんのちょっと開いてみたい、くらいの気持ちでしかないものに他人の手を煩わせるのが申し訳なかった。
 おそらく、学院内の図書館に行ってみた方が、見つける確率が高い。そう結論を出してしまえば、街をぶらつく理由は志水にはなかった。
「そっか、帰るところか……。……ね、志水くん。この後ちょっと時間に余裕ある?」
「はい、……大丈夫ですけど」
 しばらく思案して、切り出した香穂子に、きょとんとした志水が首を傾げる。
「どこか、ランチ食べに行こうよ。ひとりだとなかなかお店に入る気にならなくて」
 香穂子の誘いに、志水はあっさり、はい、と首を縦に振る。

 ……多分、それがランチの誘いでなくても。
 この後、何か用事が入っていたとしても。
 香穂子の誘いである限り。
 自分は、それを断らなかっただろうけど。


 僅かに正午より早い時間のファミレスには、まだそれほどの混雑はない。希望通りの窓際の禁煙席に落ち着いて、香穂子はパスタのランチセット、志水は日替わりのランチセットをそれぞれに注文した。
 料理が届くまでの間、香穂子はテーブルに頬杖をついて、窓の外を行き交う人々を眺めている。会話らしい会話はなくても、その沈黙が志水には心地よかった。

 彼女の、声を。
 言葉を。
 ……彼女の発する音の全てを、好きだと想う。
 だけど、本当は。
 目の前に彼女の存在がある、それだけで、今の自分は満ち足りることができるんだと志水は思う。
 ……いつか、それに我慢が効かなくなる日が来るのだとしても。
 まだ、ただの先輩と後輩の関係でしかない自分は。
 ……今は、それだけで。

 ファミレスの厨房は、回転が早い。あまり時間を置かずに目の前に並べられた料理の皿に、優しい沈黙は壊される。
 「いただきまーす」と笑顔で両手を合わせた香穂子に、志水は彼女に分からないように、こっそりと微笑んだ。


「カップル多いよねえ……」
 皿の中のカルボナーラをフォークとスプーンで器用に取り分けながら、視線だけを窓の外に向ける香穂子がぽつりと呟いた。つられるように、志水も窓の外に目をやる。楽しげに寄り添う何組かの恋人同士が、目の前を横切って行った。
「……そうですね」
「あ、でも。私たちも他の人から見れば、恋人同士みたいに見えるのかな?」
「……え」
 志水が口元にフォークを運ぶ手を止めて、ぽかんと口を開ける。香穂子が慌てたように片手を振った。
「いや!うん、ごめん!違うの!……ほら、姉弟っていっても、私たち、全然顔とか似てるわけじゃないし、学校の先輩後輩だなんて、普通は知りようもないわけだし、そうしたら、一番単純に思い付くのは恋人同士になるのかなって思っただけで!」
 一息で言い切って、喉にパスタを詰まらせた香穂子は、慌てて側にあった水のグラスを引き寄せた。
 そんな香穂子の慌てぶりを見つめながら、少しだけ志水は落胆する。
(……そんなに、思い切り否定しなくても、いいのにな……)

 志水の中にそんな本心があるなんて。
 目の前の、よくも悪くも素直な人は。
 きっと、想像もしないのだろうけど。


 誘ったのは私だから、奢るよという香穂子の申し出を、志水は頑に断る。レジ前で店員を待たせつつ押し問答してみるが、意外にも志水は最後まで引かなかった。
「僕の分は、僕が出します。香穂先輩に迷惑かけるわけにはいかないので」
 迷惑じゃないんだよ、と香穂子が諭すが、いつまでもそこで言い合っているわけにはいかないので、最後には香穂子が折れた。
 しぶしぶ自分の分だけを精算すると、ようやく納得した顔で、志水が香穂子に続いて自分の代金を支払った。
「もう、無理矢理付き合わせたのは、私なのに。お礼のファミレスのランチくらい、遠慮なく奢られて欲しかったなあ」
 拗ねるように香穂子が言った。そんな香穂子に苦笑する志水が、肩に引っ掛けたディパックの中に自分の財布を押し込んだ。
「いいんです。ランチ、一緒に食べられて、楽しかったのは、僕もそうだから」
 静かに志水が告げると、一瞬ぴたりと動きを止めた香穂子が、大きく溜息をついた。
「……香穂先輩?」
 気を悪くしちゃったのかな、と少し不安な気持ちで香穂子の顔を覗き込むと、ちらりとそんな志水を上目遣いで見つめた香穂子が、諦めたように笑った。
「そんなふうに言われると、これ以上は何も言えなくなっちゃうでしょ?……いいや、志水くんへのお礼は、また今度ってことで。今度は甘いものでも食べに行こ?嫌いじゃないよね?」
「……はい」

 香穂子の『次』に続く言葉に。
 志水は嬉しそうに微笑んだ。



 香穂子と別れて歩く家路。
 側に彼女の気配がないことは、とても……とても淋しくて。
 それでも、今、同じように帰路についている彼女には、こんな淋しさはないのかもしれない。
 ……それを考えてしまうと、もっともっと、心は淋しくなった。

 一緒にいて、あんなに嬉しくて、楽しい。
 でも、そんなささやかな幸せを噛み締めるのは、きっと、志水の方だけで。

(私たち、恋人同士に見えるのかな)

 ……他の誰が、自分たちの姿を見て、そう思ったのだとしても。
 本当に『そう』でなければ、これっぽっちの意味もない。

(今はまだ……『そう』はなれないけど)
 それでも、次に続く約束を、香穂子は示してくれたから。
 志水と同じ気持ちではなくても、あのほんの数時間のわずかな時間、少しでも、彼女が志水と一緒にいることに、楽しさと、嬉しさと。
 ……心地よさを感じていてくれたなら。

(いつか、『そう』なれますか?)

 今は、そうではなくても。
 手の届く未来のどこかで。
 ……いつかは。

 歩く足を止めて、夕焼けに染まる、美しい空を見上げる。

 この空の下、同じ幸せを噛み締めて、隣り合って彼女と歩いていける未来に。
 自分はいつか、辿り着くだろうか。

 その答えは、今この時点で。
 自分一人の想いだけでは、導けないものだけれど。

(せめて、心の中でだけ)

 誰に言うことも、見せることもない。
 自分の心の中でだけ。

 日野香穂子という存在は。
 志水だけの、秘密の恋人。




あとがきという名の言い訳 

片恋話になると、途端に志水が動かなくなる事実に気付きました……(笑)でも、このお題で志水ネタって、こういうふうにしか思い浮かばなかった。本当に恋人関係になったら、むしろ宣言しそうだもん、この子。
金やんか柚木に来ていたら、実に書きやすいお題だっただろうに(笑)

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