少し呆然としたような声で、香穂子の言葉を繰り返した火原に、香穂子は何となく身を縮こませ、小さな声で「はあ」と間の抜けた答えを返す。
数カ月前、火原が星奏学院を卒業する間際に、交わしていた約束。
来年の春は、同じキャンパスに通おうね、と。
だが、もう進路の最終結論を出さなければならない時期に来て、香穂子はその約束を諦めるという決断に到る。
火原が今通っているのは、星奏学院の付属大学。……将来、音楽を何らかの生活の糧として生きる者が、選ぶ道だ。
「いろいろ、考えてみたんです。親や先生とも、相談してみて。そしたら……」
一旦言葉を切って、香穂子は喫茶店の向い合せに席に座る火原を、ちらりと上目遣いに見て。
それから、その視線を伏せて、小さく苦笑する。
「……なんか、付属に行って、それから先の自分が想像出来なくて……」
数カ月前、星奏学院を巣立とうとする火原と、そんなに遠くはない未来の夢を見た。
一年後、進学した火原の後を追いかけて、付属大学のキャンパスで、火原と一緒に大学生活を送る夢だ。
だが、そうして楽しく過ごす数年間の、更にその先。
火原が卒業して。香穂子もまた、卒業して。
それから、どうする?
「ヴァイオリンは、好きです。一生付き合って行きたい。でも、それを生きてくための手段にするのは、何か違う気がするんです」
付属大学に進学して。
火原と共に、過ごす日々。
それは、楽しくて。幸せで。
……そして、逃れられない道のような気がした。
「もしかしたら、やっぱりヴァイオリンで生きて行きたくなるのかも。……ここで、別の世界を目指すことは、遠回りになるのかも。でも、私……」
「……うん」
懸命に言葉を紡ぐ香穂子に、火原は、一つ頷く。
綺麗に拭き清められた、喫茶店のテーブルに頬杖をついて。
屈託なく、笑った。
「それで、いいんじゃない?」
一年先に、あの優しかった場所を巣立った火原。
卒業をする時は、香穂子を置いて行くことが、淋しくて、悲しくて。
季節が一巡りする頃、また同じ場所で香穂子を一緒に過ごせる時間を夢見ていた。
……だけど。
「ねえ、香穂ちゃん。おれたちってさ。……もう、離れてても怖くないよね?」
高校を卒業して。大学に進学して。
香穂子と出逢った頃の生活とは一変してしまった。
どんなに探しても、香穂子の姿を廊下の片隅に見つけることなんて出来なくて。
講議の都合次第では、数週間逢えないなんてこともざらだ。
(でも、変わらない)
思うようには逢えなくても。
違う時間を過ごしていても。
火原は、香穂子を。
香穂子は、火原を。
相変わらず、好きなままだ。
離れ離れになる不安故に。
どうしても交わさなければならなかった、可愛くて、そしていとけないたった一つの約束。
冗談みたいな、おもちゃみたいな約束だけれど、それを支えに卒業という別れに踏み出せた。
でも、そんなふうに不安だらけで始まった新しい生活の中で。
二人は、自分たちのほどけない絆を知ったのだ。
「淋しくないなんて、言わないよ。ちょっとでも近くにいて、いっぱい逢えた方が、おれはもちろん嬉しいし」
でもね、と火原は言葉を区切る。
「それで、香穂ちゃんが自分のやりたいことを諦めることになるんなら、そっちの方がずっと嫌だ」
香穂子が行きたいと望む道が。
香穂子が生きたいと望む世界が。
どこか、火原の知らない、別の場所にあるというのなら。
香穂子は、それを目指して行っていい。
そうしたからといって、自分たちの関係は。
何も崩れたり、しないのだから。
「……気が抜けました」
すとんと力を抜いて、椅子の背もたれに体重を預け。
ちょっと毒気が抜かれた顔で、香穂子がぽつりと呟いた。
「何か、もっと盛大に駄々こねられる覚悟だったのに」
「……香穂ちゃんの中で、おれのイメージってどうなってんの?」
がっかりして肩を落とす火原に、香穂子が楽しそうに笑って。
それから、改めて視線を合わせた火原の目を、真直ぐに見つめ返す。
「……まだ、何をやりたいのか、どこにいけばそれができるのか、わからないけど。自分のやりたいことを、自分で選びます」
はっきりと告げた香穂子が。
……前向きに、一途に。
目指すものを、真摯に目指していた、火原が好きになった彼女と変わらない、同じものだったから。
それが嬉しくて、火原は頬杖をついたまま、ふわりと笑う。
「うん、そうして」
いつか、遠い未来で。
自分たちが辿った軌跡を振り返って、悔やまずに、嘆かずに。
隣り合って、笑い合って。
胸を張っていたいから。
たとえそれが、それぞれに違う、別々の道であったとしても。
私は、自分自身の意志で選びとった。
私だけの道を行く。
あとがきという名の言い訳
甘さの欠片もなくて申し訳ないですが(笑)それでも、意外に火原はこういうことにあっさりしていそうな気がします。
懐が広いというか……なんか、全然別の場所にいても、「まあ、いいや」と楽に構えられる度量があるような。


