それは、皆が言うように。
穏やかで、優しくて、素直な音色。
屈託がなくて、人の心に浸透する。……そんな魅力的な音色。
香穂子のヴァイオリンの音色は、特別だと火原は思う。
特別に上手いとか。逆に驚くほど下手だとか。そういう特徴は特にないのだけれど。
どんなにたくさんの雑音の中からでも、香穂子の音色は分かる。それは、特出するのではなく、彩りが違うのだ。
(あんまり、コンクールとか意識してないからかな)
いつだったか、悪戯を白状するみたいな表情で、コンクールの順位とかは、ホントはあんまり気にしてないんです、と香穂子は火原に告げたことがあった。
(下手なのは、当たり前だから。でも、皆の迷惑にならないように、できるだけ上手くなりたいとは思うんですけど)
(それよりも、先輩に教えてもらったみたいに。楽しくヴァイオリンが弾ければ、それが一番なんです)
屈託なく笑った彼女の言葉が、嘘じゃないというのは分かっている。
彼女の言葉を信じるのであれば、香穂子のスタンスは、コンクール参加者たちの中で、おそらく火原に一番近い。
楽しむことが、最大の条件で。
上手くなること、コンクールの上位に入ることも、結局は火原にとっては『楽しむ』ことの、一環でしかなくて。
人に認められたら、と思うことはある。
演奏を、素晴らしいと思ってもらえたら。
だけど、それはやはり、技術に秀でているから、その技量に圧倒されるから……そういうことじゃなくて。
聴いている人にも、音楽を『楽しい』と思ってもらいたいから。
火原の音楽は、そんな綺麗な気持ちばかりで出来ているものだけれど。
……音楽に抱く思いは、似ているはずの香穂子の音色は。
多分、火原とは違う。
(だって、時々分からなくなるんだ)
時々、香穂子の音は。
火原が知らない感情を、混ぜ込んでいるから。
(……かなわぬ恋の淋しさみたいなもの?)
素直で、優しくて。
だけど、どこか切ない旋律を。
香穂子のヴァイオリンが歌っていた時、火原にはそれが理解出来なくて。
何を思って弾いたのか、どんな感情を乗せてヴァイオリンを歌わせたのか。
彼女に尋ねずにはいられなかった。
香穂子は、少し思案するように首を傾げて。
照れたように笑いながら、そんな答えを返してくれた。
そんな辛いこと考えながら、ヴァイオリンを弾くの?と驚いたら。
香穂子の方が、驚いたように目を丸くして、それから柔らかく目を細めて、彼女は大人びた笑顔を見せたのだ。
(辛くても、悲しくても。そういう感情も全部、『私』の中にはあるから)
「……そう、あれから、なんだよな……」
楽しい、嬉しいだけで完結しない音楽。
もちろん、知識としては火原もそういう音楽が存在することを知っていた。課題曲などに上げられてしまうと、必ず「勢いだけで演奏するな」と教師に叱られる類いの音楽だ。
感情を乗せろと。そんなふうに。
だけど、そんな悲しい気持ちは、火原には理解が出来なくて。
……だから、多分驚いたのだろう。
穏やかで、優しい音色。
一緒に音を重ねると、楽しさが倍になる、香穂子のヴァイオリン。
それにもまた、火原の知らない感情が、きちんと存在する事実。
自分に近い存在だと思っていた彼女が、そんな火原の知らない感情を、きちんと胸に抱いていた真実。
あれ以来。
彼女の存在が、気にかかっている。
いつも、屈託なく笑っている。
ふわふわと砂糖菓子のように甘いはずの、日野香穂子という『女の子』の存在。
(……あ、香穂ちゃん)
屋上から見下ろす風景の中、遠くに香穂子の存在を見つける。
それは、どんなに小さくても、儚くても。目に止まる光。
火原が向ける、遠い視線の先で。
いつもの、柔らかな笑顔を心のどこか奥底に大切にしまい込んで。
真直ぐに、前を見て。
香穂子は、立ち止まっていたその場から歩き出した。
(……ああ、そうか)
誰の助けも必要とせず、真直ぐに前だけを見て歩き出す、その真摯な姿。
その香穂子の姿を見た途端、火原は全てのことに合点が行く。
女の子って。
ふわふわで、甘い砂糖菓子みたいで。
守らなきゃいけないって。
大切にしなきゃ、崩れちゃうって、そんなふうに思っていたんだ。
でも、違う。
本当は違うんだ。
壊れそうで、崩れ落ちそうで。
そんなふうに、か弱いように見えても。
心の奥に一本強い芯があるんだ。
揺らがない、軸になる部分があるんだ。
それを支えにして、辛いことも悲しいことも、全てを生きるための糧にして。
そうして、彼女は。
たった一人で、大事な一歩を踏み出して。
誰に対しても変わらぬ、あの笑顔と音色とを届けるんだ。
どうしてこんなに。
彼女のことが気になるのかと、思っていた。
可愛いだけの女の子は。
いつでも笑っている優しいだけの女の子は。
これまでだって、何人もすれ違って来たのに。
どうして、彼女だけが。
自分の心に止まったのか。
それは、きっと。
香穂子が彼女自身の中の、喜びも哀しみも。
自分が抱いて来た感情を全て、隠さずに晒すから。
その無防備さが、ひどく心許なく、危なっかしくて。
それと同時に。
……憧れるから。
(だって、それは『強さ』だから)
風が吹けば倒れるんじゃないかって思うくらいの、華奢な身体と。
相反する、簡単に火原に全てを預けて、守らせてはくれない、芯の強さ。
……でも、そんな時にも、決して少しも傷付かずに彼女は立っているわけではないから。
そんな彼女を、本当の意味で守りたいと。
この自分の、頼りない手で。……大切に守りたいと。
そんなふうに、願うようになったんだ。
あとがきという名の言い訳
実は渡瀬、あんまり火原が香穂子を好きになる理由がぴんとこないんです(笑)
いや、一度恋に落ちるとひたすらに香穂子命(死語)になるとは思うんですが、何故「香穂子」でないと駄目なのかっていうのがイマイチ分からなくて。
それも、火原創作があんまり得意じゃない理由の一つなんですけど。一つ分かるのは、香穂子が火原の持っていた「女の子像」からは微妙にずれる存在なんじゃないかってこと(笑)
守りたいんだけど、守らせてくれない、みたいな。


