……そんなふうに聴き分けられるほどの、性能のいい耳を持っているとは、自分では思わないけれど。
それでもここ最近、上質の音色をこれでもかと鼓膜に叩き込まれて、少し前の自分に比べてみれば、きちんとその音色が持つ性質や色を、判別くらいには成長出来たのではないかなと自負する。
今も、どこか遠くから聴こえてくる音色が、『彼』のものだと分かるから。
素直な人だから、出せる音だ。
火原のトランペットの音を聴くと、香穂子はそんなふうに思う。
小手先の誤魔化しがない演奏という意味で言えば、コンクール参加者の中でそういう演奏をする人は大勢いる。
月森や、志水だってそうだし、土浦もそうだと思う。
だが、彼らには向上心がある。もっと上手くなりたい、完璧にしたいという向上心。
それは、香穂子にもあるもの。
だから、別にそのこと自体を否定するつもりはない。
だが、火原だけは違う。
向上心がない、というのでもない。
何か、目指すべきものがあるからこそ、彼はトランペットを吹くのだろうから。
ただ、その目指すべきもの。それこをそ、彼は他の誰とも違う場所を見ている。そんな気がする。
多分、彼の中にあるものは、『如何に、音楽を楽しむか』。
……たった、それだけのことで。
だからこそ、香穂子は彼の音に憧れる。
彼の紡ぎ出すような、素直な音色に憧れる。
まだまだ、未熟だから。上手くなりたいと思う気持ちを横に置いていては駄目だけれど。
香穂子が目指す音楽は、おそらく月森達よりも、火原が目指す音楽に近い。
『ムラッ気はあるけれど、上手くハマればコンクール参加者の中で一、二を争う魅力的な演奏家』だと、火原を称したのは、金澤だっただろうか。
最初はぴんとこなかったその評価が、いろいろな音楽に触れ、あの頃よりはほんの少しだけ、音を聴き分ける力がついた今なら、納得出来る。
多分、火原ほど、素直に人を元気にしてくれる音を出す人はいない。
それは勿論、香穂子個人の評価でしかないけれど。
(……あ、先輩の音)
校内に沢山溢れている音の中から、一つ飛び抜けて聴こえる音色。
元気で、楽しくて。
人の心を、明るく照らしてくれる音だ。
火原の音には、そういう要素しかないから、すぐに分かる。
楽しい、嬉しいの正の要素しかなくて、悲しい、辛いという負の要素がない。
……持っていないわけじゃないのだと思う。ただ、表に出さないだけで。
でも、簡単そうに思えるそれが、決して簡単なことじゃないと香穂子は知っているから、あの音に惹かれる。
呼び寄せられるみたいに、火原の音を探して、香穂子は歩き出す。
火原の居場所はすぐに分かった。
森の広場、たくさんの人だかり。
その中心で、笑顔でトランペットを吹いている。
曲が終わって、わっと歓声が上がって。
照れくさそうに頭を下げた火原が、顔を上げたその時に、香穂子の存在に気付く。
「香穂ちゃん!」
大声で呼ばれて、ぶんぶん、と大きく手を振られて。
周りの視線が一気に自分に集まって、恥ずかしかったけれど。
……心の片隅の方で、少しだけ、香穂子は誇らしかった。
「先輩って、すごい」
木陰に、直に腰を下ろして。
膝の上のヴァイオリンケースを撫でながら、香穂子がぽつりと呟いた。
こちらは、ケースの中にトランペットをしまっていた火原が、おれ?と自分を自分で指差す。苦笑しながら、香穂子がうん、と頷いた。
「先輩の音って、皆を元気にするんです。明るくて、楽しくて。……演奏だけがそうなんじゃなくて、火原先輩って人がそういう人で、トランペットにそれがそのまんま出て来てる感じ。それって、すごいですよね」
人に愛される音色は、そのまま火原が『愛される』人であることの証。
そんな人に好きだと言ってもらえる自分が、香穂子は誇らしくて。
同時に、少しだけ情けない。
「先輩みたいに、なりたい」
膝の上のヴァイオリンケースを見つめながら。
香穂子が小さく言った。
香穂子が、火原みたいな人間だったら。
素直で、裏表がなくて。
いつでも、誰にでも明るく振る舞える人間だったら。
こんな気持ちを、知らずに済んだのだろうか。
いつも、たくさんの人に囲まれて。
その輪の中で笑っている火原が。
うらやましいって。
そんなふうでいたいって。
……そう、思う気持ちの裏側で。
淋しいって。
どうしても、あの人は自分一人のものにはならないんだって。
拗ねてしまう、こんな気持ち。
「香穂ちゃん、それ、誤解」
俯いた香穂子の頭を優しく撫でて。
火原は涙目で自分を見上げた香穂子に、苦笑する。
「あのねえ、おれ、きみが思ってるほど社交的じゃないし。めちゃめちゃ心狭いんだよ」
「そんなこと……」
「……ま、いいや。そっちの話は後で。それよりもさ、きみのヴァイオリン! それだってさ、すごく素直な音色だよ。知ってる?」
香穂子の顔を覗き込むようにして。
とても近い場所で、優しい火原の声が、優しい言葉を作る。
「おれ、きみのヴァイオリンを聴くと、頑張らなきゃって思う。頑張って、この曲の良さを皆に知ってもらわなきゃって。……それはさ、きみがそう思って弾いてるからだよ」
大好きな音楽を。
その音楽を知らない人に、届けるために。
香穂子は、いつだって素直に弾く。
小手先のごまかしも、技量に頼った無機質な演奏でもなく。
彼女らしい、優しく暖かい音色で。
拙さ、幼さすらも、すべて曝け出して。
彼女が、自分を守らないから。
自分の全てを出し切って、音を伝えようとするから。
皆、彼女の音色に引き寄せられる。
……自分も頑張らなければと、奮い立たされる。
「きみが頑張ってるから。そういうの全部、隠さずに見せるから、おれも頑張らなきゃって……そう思いながら、頑張れる。……香穂ちゃんのヴァイオリンって、そういう存在だよ」
そんなふうに。
素直になりたいと。
そういうふうに、生きたいと。
憧れる、存在。
「……ほ、ほんと、……に?」
戸惑って、自分を上目遣いに見つめる香穂子に、火原は大きく頷く。
そして。
するりと伸びて、香穂子を捕らえる。
優しくて……でも力強い、火原の両腕。
「せ、先輩……?」
「ついでにさ、そういうとこまで素直じゃなくてもいいと、おれは思うんだけど。香穂ちゃんは、もうちょっと自分が『可愛い』ってことを、自覚しちゃった方がいいと思うんだよねえ……」
本当は、優しくなんてない。
心だって、そんなに許容量、広くない。
戸惑いも、不安も。
簡単に曝け出す彼女に惹かれる人物は。
多分、自分だけなんかじゃないから。
「……おれ、きみが思ってるほど、心広くないよ」
先ほど呟いた言葉を、火原はもう一度呟く。
もうこれは。
香穂子にだけ、伝わればいい本心。
「もう、ずっとおれん中に閉じ込めて、独り占めしてたい」
低く呟いた言葉に香穂子が真っ赤になって。
……それから。
緩く、火原に捕らえられた腕の中で、ふわりと心の中に浮かんで来た、彼への愛おしさを。
彼に、素直に伝えるために。
火原の唇に、香穂子のそれが。
柔らかく、……触れる。
あとがきという名の言い訳
加地の「朴念仁~」並に、火原に辿り着いてへこんだお題(笑)
あんな『素直』を絵に描いたようなキャラクターを、どうやって更に素直にしろと!?(笑)
この場合、香穂子という人間が意地っ張りならば、成立するお題かとは思うんですが、うちの香穂子もどちらかといえば素直なキャラなので……(--;) ただ香穂子の音楽性は、キャラの中で近いのは火原になるかなあと思っていたので、そういうことがちょっと書けたのは嬉しかったです。


