オケ部の朝練だの、進路指導だの、いろいろと言い訳を見つけて、メールでだけ連絡を取って。
元々は、火原の方がそういうことに我慢が効く方じゃないと香穂子も知っているから、そろそろ彼女も火原の態度に違和感を持ち始めているのかもしれない。
……メールや電話の対応に、そういう鋭さは感じなくても。
今日も一緒に帰れない旨のメールを送って、返ってきた香穂子のメールは「分かりました」の一言と、にこにこマークだったけど。
(不自然だって、おれが思うもん……)
上手く振る舞えない自分にがっかりして、火原はがっくりとその場に座り込んで、肩を落とす。
でも、しょーがないんだ。
せめて、もう少し自分の理性に自信が持てるまでは。
おれが、きみに近付いたら。
多分きみを傷付けちゃうから。
誰かを好きになって、その想いが叶ったら。
……意外なほど、自分はその先の方を見ることをしていなかったんだなと火原は思う。
勿論、香穂子と過ごす休日や、一緒に昼食をとる昼休みとか。
彼女が自分を好きになってくれたら、きっと楽しくなるであろう時間を、空想したりはしていたけど。
どうしてそう思ったのか分からないけれど、想いが通じたなら、自分の彼女への想いは、そこでハッピーエンドだと考えていて。
ずっとずっと、ふわふわとくすぐったくて、暖かい気持ちのままいるのだと思っていた。
……少しだけ、苦い気持ちや、痛い気持ちが混じるのは経験済で。
それでも、そんなふうに優しい気持ちだけで、これから彼女と過ごす時間を、歩いていけると思ってたのに。
どうしてだろう。
いつからだろう。
そんなに、無邪気な。
純粋な気持ちだけで、いられなくなってきたのは。
自分のすぐ手の届く場所に、彼女の存在を感じると。
まず、手を繋ぎたくなる。ずっと握り締めて、離したくなくなる。
指と指をちゃんと絡めて、握り締めて。解けないようにしたくなる。
それから、それに満足したら、抱き締めたくなる。
腕の中にすっぽりと収まるだろう、華奢な身体を閉じ込めて。
その柔らかな髪に顔を埋めて、彼女の香りで肺をいっぱいに満たしたくなる。
そうして、一つの欲求が満たされると、次へ次へと、欲求が増えていく。
彼女にしたいこと、して欲しいことが、どんどん増えて。いつか歯止めが効かなくなりそうで。
今はただ、側にいることだけで、幸せそうに微笑んでいる彼女を。
そのうち火原の勝手な気持ちを押し付けて。傷付けてしまいそうで。
……怖くて。
今は、彼女の顔を見られない。
どんなに、我慢しても。耐えていても。
自分が、彼女を好きでいる限り。
それは、そのうち押さえが効かなくなる感情だと、心のどこかで、火原も気付いているから。
自分が彼女を「好き」なだけで。
彼女が自分を「好き」なだけで。
終わってしまわない感情を、知った。
欲深く、穢れてく。
好きという感情は、強くなればなるほど、そういう余計なものがくっついてくるのだと分かった。
(……逢いたい)
本当は。
香穂子以上に、火原の方が、そう願っている。
逢って、彼女の笑顔を見て。
その柔らかな手を握り締めて、折れそうな身体を力一杯抱き締めて。
……そうして、触れたい。
繋がりたい。
抱えきれないほどに育った愛情。
一人歩きを始めてしまったそれが、きっと、そんな邪な思いを火原が持っているなんて、微塵にも感じていないだろう香穂子を、どうしようもなく傷つけるだろうと。
それだけは、火原にもちゃんと分かるから。
「火原先輩!」
ぼうっとしたまま歩いていたら、ちょっと久し振りの心地のいい声が火原の名を呼んで、制服の袖を引っ張った。
弾かれたようにそっちを見下ろせば、息を切らした香穂子の姿。荒い呼吸を落ち着けるように、大きく深呼吸をして、ぱちりと一つ瞬きをして。
火原を見上げて、にっこりと笑った。
「えへへ、遠くから姿が見えたから、頑張って追いかけちゃいました。……久し振り、ですよね?」
小さく首を傾げた香穂子から、反射的に火原は視線を反らした。「そ、そうだね」と答えた火原の声に、袖を握っていた香穂子の指先から、ふと力が抜けた。
「……もしかして、先輩。最近、私を避けてますか?」
「……なんで? そんなことないよ……」
力なく呟く自分の声に、説得力なんてまるでないことが分かる。
香穂子を見ることが出来ないまま、ただ視線を反らして、口を噤んでいると、香穂子の気配がふと離れていくのが分かった。
「香穂ちゃ……」
思わず火原が香穂子の方へ視線を向けると、一歩後ずさった香穂子が俯いている。
「……嫌いになったんなら、そうだって。ちゃんと言って下さい。……言われたからって、そんな簡単に納得なんて出来ないけど、でも、火原先輩にずっと我慢させる方が、辛い……」
ぽつりと呟いた香穂子を見つめながら。
頭の中で必死に引き留めていた何かが。
もう、止められなくなることを、火原は感じていた。
優しくて、甘くて。
穏やかな気持ちのまま、愛情は育っていくと思ってたんだ。
薄れることも、消えることもなく。
そのままの形で、どんどん強くなっていくだけだって、そう、馬鹿みたいに信じてたんだ。
だけど、本当は違う。
好きだって思えば思うほど。
その気持ちが育てば育つほど。
『想い』は歪に。
濁った、穢れたものに。
形を変えていくんだ。
泣くまいと吸いかけた香穂子の呼吸が、不自然に止まる。
視界が暗くなって、愛しい香りに満ちて。
力一杯、火原に抱き締められたのだと、数秒後に気付く。
「香穂ちゃん……香穂、ちゃん……!」
今まで聴いたこともないくらいの切ない声で。
香穂子の名前を繰り返しながら、火原が香穂子を抱く腕が、どんどん力を増していく。
「ちがうんだ。嫌いなんかじゃない……きみを、嫌いだなんて、冗談でも思えない!……そうじゃなくて。そんなんじゃなくて!」
『好き』な気持ちが、どんどん、どんどん強くなって。
いつか、きみを押しつぶして、壊してしまうんじゃないかって。
それが、怖いんだ。
どんなに、同じ想いでも。
火原は、男で。
香穂子は、女の子だから。
加速がついたその想いに、明確な差が出てくることなんて、簡単に分かる。
きみが望まないことを。
きみが、まだ思いもしないようなことを。
おれはもう、望まずにはいられないんだ。
「せ、先輩……」
抱き潰しそうな勢いの、火原の腕の中で。
じたばたともがく香穂子が、小さな声で言った。
「あ、あの、ちょっとだけ、腕、緩めて下さい……」
「……あ」
発作的にとはいえ、全く力の加減をしなかったことに気付いた火原が慌てたように香穂子を捕らえていた両腕を、万歳するみたいにして、解く。
解放された香穂子が、大きく息を付いて。
……それから。
「……え?」
驚く火原に構うことなく。
視界一杯に近付いた香穂子の唇が、そっと火原のそれに触れた。
「……私の気持ちも、あの頃のままじゃ、……ないです」
まだ、ほんの少し近付ければ届く位置で。
香穂子の柔らかな呼吸が、火原の唇に触れる。
「触りたくないって想われるより、触りたいって想われた方が、ずっとずっといいです。……もちろん、そのうち先輩に追いつけなくなるのかもしれないけど」
それでも。
避けられるより。
顔が見られないより。
全て、奪われる方が、ずっといい。
「私がそう想うことは。……穢れてますか?」
想いが育てば育つほど。
成長すれば、するほどに。
無邪気なまま、純粋なままでは。
完結出来なくなる想い。
想像していたよりも、ずっと。
強く、……強く。
相手が欲しくなる、そんな想い。
香穂子が教えてくれた彼女の想いは。
自分の中にあったものと、同じようでいて、違うものなのかもしれないけれど。
それでも、穢れているなんて、思えなくて。
……単純に、嬉しかった。
(きみも、同じ?)
願う強さは違っていたとしても。
起因する想いが、同じものであるなら。
「……あー、えーっと。あの……香穂ちゃん?」
「はい」
顔を真っ赤にした火原が、片手で口元を覆う。
名を呼ばれた香穂子は、きょとんとして火原のそんな顔を見上げた。
「あの……補充、していい?」
「はい?」
照れまくりで告げた火原の言葉の意味が分からなくて、香穂子が首を傾げると、視線を中空に泳がせる火原の頬が、ますます赤くなった。
「逢えなかった三日分の、きみのこと」
……逢えなかったのは、三日間私を避けてた先輩のせいですけど。
もっともと言えばもっともな、そんな指摘をするのは、今のところ止めておいて。
「……はい」
もう一度、火原に緩く捕らえられた腕の中で、真直ぐに彼を見上げて。
甘く、幸せそうな笑顔で、香穂子は大きく頷いた。
あとがきという名の言い訳
「crescendo」五線譜における強弱記号/強弱の変化を表すもの/だんだん強く(Wikipedia参照)
渡瀬の頭にまっさきに浮かんだのは、「一秒ごとに~♪」の方ですが(笑)この場合、香穂子への欲求がだんだん強くなる火原。
裏側へ大暴走しそうになる火原を止めるのに苦労しましたわ-(苦笑)
箍が外れちゃうと暴走しそうなのは、やっぱりこの子と加地ですね。次点月森(笑)


