気になる子ではあったんだ。
普通科からの大抜擢、イレギュラーな女の子。
突然馴染みのない場所に放り込まれて、ヴァイオリンを抱えて、学内音楽コンクールという喧噪の中に立つ彼女は。
とても、不安そうな目をしていたから。
屋上は人があまりいなくて、学校内の賑わしさがやけに遠くて。
得意な場所なんかじゃない。だけど、空に抜けていくトランペットの響きが好きで。
最初にトランペットの良さを実感したのが、別の誰かが屋上で空に向かって吹いていた音色だったからなのかもしれない。
静かな、人の気配がない場所は苦手なのに、時折、無性に屋上が恋しくなって。
その日も、ちょうどそういう気分になった時だった。
せっかくだからと、どちらかといえば華やかな、テンポのいい曲が好きだけど、きちんと音を空に響かせたくて。
わざと一音一音をゆっくりと吹き上げる曲を選んで。
長い一音を空に向かって響かせた。その時に、背後で開いたドアの音。
人が来るのは珍しいなと思いながら、肩ごしに振り返ると、「……あ」と小さく唇が動いた。
高い場所の強い風に癖のある毛先をなびかせて、そこに立っていたのは、珍しい普通科からのコンクール参加者。
『日野香穂子』というその女生徒の名前は、分け隔てなく人と付き合うという自分のモットーから、最初に掲示板でその5文字を見た時から、きちんと脳内に焼き付けていた。
「日野ちゃん」
まともに話すのはこれが初めてなのだが、屈託なく笑顔で呼ぶと、少しだけ安堵した表情を見せた彼女が「火原……先輩?」と確認するように首を傾げた。うん、と火原は笑顔で頷いた。
「覚えててくれたんだ!おれの名前。……日野ちゃんは、今日はここで練習?」
「あ……えっと、練習室が一杯みたいだから、どこか人の迷惑にならないところ、ないかな、って……」
なるほどね、と火原が再度頷く。
「火原先輩も練習ですか?」
「あ、うん。……まあね」
練習と言うか、何と言うか。確かにトランペットを吹いていたけれど、特にコンクール用の曲を吹いていたわけではなくて。
かといって、コンクールに無駄になる時間と言うわけでもなくて。
上手く表現出来ないから、曖昧に火原は答えた。
「……もし、私が邪魔になるんだったら、場所を変えますけど……」
恐る恐る尋ねた香穂子に、火原はきょとんとした。
「邪魔って、何で? 全然、そんなことないよ?」
きっぱりとした火原の返答にも、香穂子は少し躊躇う素振りを見せたけれど、やがて納得したのか、それとも他に場所を思い付かなくて諦めたのか、火原と少し距離を置くようにして、ちょこんとベンチの端に腰を下ろした。
何となく、それ以上彼女の前でトランペットを吹く気にならなくて、火原も香穂子と反対方向のベンチの端に腰を下ろした。ちらりと横目で彼女を盗み見ると、真新しい楽譜を取り出した彼女は、少し緊張した面持ちでその楽譜を眺めている。
不安そうな横顔。
華奢な身体は、どことなく、頼りなさげで。
「……日野ちゃん、あのさ」
思わず、声をかけていた。
驚いたように香穂子が顔を上げて、火原の方を見た。
「あの……困ったこととかあったらさ。おれに声かけてよ! こう見えても、おれ3年だし、一応音楽科だし。相談に……乗れると、思うからさ」
本当は。
いつだって、誰かの力になりたいと思っているけれど、火原が実際に誰かの力になれることは、あまりなくて。
どちらかといえばそそっかしい自分は、親友の柚木やオケ部の仲間に、面倒を見てもらってることの方が多いし、コンクール経験も皆無に等しいのだから、あまり大きなことは言えないのだけれど。
それでも、自分は彼女の力になりたいと思った。
不安げに、普段とは全く違う環境に身を置くことになった彼女になら。
自分の、ちっぽけな力でも。
何か、役立てることがあるんじゃないかと思った。
じっと香穂子を見つめていると、香穂子の方も視線を反らすことなく、真直ぐに火原の視線を受け止めていて、火原は突然、居心地が悪くなる。
何で、女の子の顔を見つめながら力説してるんだ、と頬が熱くなるのを感じながら、半ば自己嫌悪に陥っていると、やがて香穂子が、ふと口元を緩めて、微笑んだ。
「……火原先輩のトランペットって、すごく元気で、明るくって。……元気を分けてもらえます」
「え……あ、うん……そう?」
突然の、香穂子の言葉の意味が分からなくて。
戸惑ったまま火原が答えると、香穂子が驚くほど、しっかりとした口調で。
声量は小さいけれど、はっきりと火原に届く、通る声で。
「それだけで、充分力になってもらってると思います」
そう、言った。
驚いた火原が、もう一度香穂子の方を見つめると。
今まで、不安そうで、頼りなさげに見えていた香穂子がまだ真直ぐに火原の方を見ていた。
その眼差が、はっきりとした意志を持った、強いものであることに。
火原は、その時初めて気がついた。
……当然と言えば当然なのだけれど。
知り合って間もない彼女には、火原がまだ知ることができない『強さ』があることに。
知らない、隠された一面があることに。
気付いてしまった。
最初から。
彼女は気になる存在だったのだ。
あまりにも、その存在が異質過ぎて。
意識しなくても、目について。
弱いようで強い。
強いようで弱い。
そんなふうに、理解しにくい少女だったから。
余計に、彼女を知りたくなった。
日が経つに連れ、知らなかった彼女を、少しずつ知って。
もう分かったつもりになって、一旦は安堵するのに。
彼女の一挙一動に驚かされて、まだ知らない一面があることに気づかされて。
そして、また初めに戻る。
ひどく気になるのに、もっと知りたいのに。
まだ何一つとして、火原が知り得ていない女の子になってしまう。
……本当は、真実に他人を知ることは出来なくて。
今まで知り合って来た女の友達だって、完璧に知っているなんて言える人間は、一人としていないのだろうけど。
それでも、彼女のことだけが。
どうしても、知りたくて。
『日野香穂子』という存在を。
最初から、繰り返し。
知りたいと願う。
知ることができるように、努力する。
何度も何度も、彼女という人物を、知るためになぞって。
同じことを繰り返す。
……そんな無限のループを、苦には感じない。
その感情こそを。
『恋』というのかもしれないと。
初めて火原は思った。
あとがきという名の言い訳
「ダ・カーポ」音楽において、曲のはじめに戻る指示を意味する演奏記号。(Wikipedia参照)
ということなので、こんな話にしてみました。
分かりづらいかもですが、香穂子という人間を知るということを、途中までやっては、また最初から繰り返してる火原です。
本当の意味で、人を理解するということは、相当その人間に興味がないと出来ないという気がします。


