……でも、その位置故に。
実感してしまう『真実』の距離。
青天の霹靂、とは、ああいうことを言うのだ。
今、改めてあの時の衝撃を振り返って、香穂子はしみじみとそう思う。
優雅な仕草で、極上の笑顔で。
壁に片手をついて、香穂子の顔を覗き込んだ自他共に認める完璧な優等生の、整った唇が発した言葉が、よりにもよって。
「うざいんだよ、お前」
……だ、なんて。
でも、今そんなふうに、あの時の衝撃を一つの思い出として振り返れるようになった自分も、大したものだと香穂子は自画自賛する。
一度箍を外した彼は、香穂子の前だけでは優等生の仮面を被ることはなくなったし、そんなふうにからかわれ続けていると、さすがに香穂子にも耐性というものが身につくのだ。
そうして、耐性がついた柚木の隠された裏の顔をじっくり眺めていると。
不思議と、香穂子は優等生である柚木の顔よりも、そうでない一面の方に、好感を持っている自分に気付くのだ。
(所詮、作り物だからね)
そう、自嘲的に呟いた柚木の声が。
ふと脳裏を掠める。
「そうやって、自分を取り繕ってるの、辛くないんですか?」
あまりに完璧な優等生の仮面と、その裏に隠した本心とのギャップ。
香穂子自身、あまり内に溜め込める性格ではないから、見事なまでに二つの顔を使い分ける柚木に、ふと尋ねてみたことがあった。香穂子の唐突な質問に、少し驚いたような顔をした柚木は、苦笑して視線を伏せた。
「お前みたいな単純な人間には難しいと思うけど、慣れればなんてことないさ。使い方を間違えなければ、案外便利なものだよ」
「……でも、不自然。……ですよね?」
端正な横顔を覗き込んで、香穂子は問う。
一つはっきりと瞬いて、唇の端から笑みを消した柚木が、視線だけを香穂子の方へ向けた。
……彼のもう一つの顔を知らない頃なら。
優等生の彼しか知らない頃なら、きっと分からなかった。
でも、それを知ってしまった今なら、香穂子にも分かる。
確かに、口を開けば悪口雑言。
遠慮も躊躇もないし、人を小馬鹿にした言動は失礼極まりない。
だが、そんなふうに香穂子をからかいながら、時折楽しそうに覗かせる笑顔は。
普段見せる上品な微笑みではないあの笑顔は、本物だと香穂子は思う。
あんなふうに。
あんなふうに、無邪気に笑える人なのに。
そんな笑顔すら押し殺す姿に、香穂子は時々痛々しさすら覚えてしまうのだ。
じっと、柚木のほんの僅かな表情の変化も見逃すまいと、彼の顔を凝視する香穂子に、柚木はふと苦笑する。
綺麗な指先を伸ばして、彼にはそぐわない仕草で、くしゃくしゃ、と香穂子の癖っ毛を掻き混ぜて。
とん、と額を指先で押し返す。
香穂子が思わず、片手で柚木に突かれた額を押さえた。
「別に、辛いとは思わないさ。さっきも言った通り、俺は初めからこんなふうに生きているわけだからね。……でも、それがお前の目に不自然に映るのなら、それもまた、仕方がないさ」
少しだけ疲れたような。
そんな、溜息を混ぜ合わせて。
「所詮、作り物だからね」
柚木はぽつりと、そう呟いた。
その静かな声は。
突き放すような仕草は。
まるで、これ以上近付くなと言われているみたいで。
誰もいない屋上。
柚木が好きな場所。
今は香穂子しか人影のないこの場所で、香穂子は祈るように目を閉じて、天を仰いだ。
おそらく、香穂子という存在は。
この学院の中で、一番柚木の近くにいる存在なのだろう。
親友である火原も。
柚木を取り巻くたくさんの女生徒も知らない柚木の顔を、香穂子だけが知っているという点で。
それでも香穂子は。
もしかしたら自分は、柚木の本当の一面なんて、知らなければよかったのではないかと思っている。
もし、香穂子がたくさんの女生徒の中の、単なる一部に過ぎなかったら。
柚木の外側の綺麗な面しか知らない、そこだけに憧れていられる立場であったなら。
きっと、こんな淋しさは抱かなかった。
近付き過ぎてしまった今だからこそ。
分かってしまう、本当の、柚木と香穂子との距離。
迂闊に触れようとすることすら、躊躇われるほどに。
その距離は、ずっと、ずっと遠過ぎて。
近付けるはずなのに、近付けない。そんなもどかしさは。
想像以上に、切なくて、苦しい。
本当は越えるべきではなかった境界線を越えてしまったその代償は。
驚くほど、胸に突き刺さって痛かった。
あとがきという名の言い訳
無印ベースです。こういう状態の、柚木からの視点は割と書いているんですが、そういえば、香穂子視点はあまり書いていなかったなと思います。
柚木の本性を知っている分、他の子たちみたいにオブラートに包まれたような感じじゃなくて、突っぱねられると逆にしっかり距離があることに気付かされるんじゃないかなとか思いました。
……っていうのを、ここで解説してる時点で駄目駄目なんですよね、ホントは……(泣)


