いつしか、見ていることが辛くなった。
(今日もすごいなあ……)
移動教室の途中、ふと渡り廊下から見下ろした中庭で、いつものように数人の女生徒達に囲まれた先輩の柚木を見つけた。
どの女生徒達からも等しく、同じ距離を保ったまま、上品な微笑みを浮かべて、当たり障りのない受け答えを返す柚木。
……会話なんて、遠過ぎて聴こえない。でも、『そう』だということは香穂子にも分かる。
香穂子が本当の柚木を知らないままだったら、香穂子も、あの場所にいる柚木の笑顔を、躊躇わずに信じただろう。
誰にでも、分け隔てなく。
同じ笑顔を与えて。
怒ることも、愚痴ることもなくて。
完璧で、すごい人だって。
だけど香穂子はもう、あの柚木の笑顔が、計算し尽くされて作られた、紛い物だって。
……知っているから。
初めてそれを知った時には、腹立たしかった。
彼を慕ってくる女生徒や周りの友人。そんな彼の生活を支えているはずの人達を騙しているんだと、悔しくなった。
だけど、本当に。
家族ですら、誰一人彼の本当の心を知らないのだと。
皆、何の疑問もなく偽りの柚木の顔に騙されているんだと知った時。
……香穂子は逆に、何故か、とても哀しくなったのだ。
親友の火原ですら、知らない柚木の本心。誰にも言えない、曝け出せない。……そんな真実は。
本当は、柚木にとって、ひどく辛いことなんじゃないかと思えた。
だから今、こんなふうに遠目にでも、柚木の笑顔を見ると、哀しい。
かなしくて、辛くて、やり切れない。
……別に柚木だって、そんなふうに香穂子の同情が欲しくて、香穂子に自分の本性を晒したわけじゃない。
それは、分かっていたけれど。
じいっと見入っていると、ふと柚木が視線だけを上げた。
渡り廊下にいる香穂子と、ばっちりと目が合う。
香穂子が息を呑んで、ただ柚木の視線を見つめ返していると、名を呼ばれたらしい柚木が、ふと笑って視線を香穂子から外した。
(……こんなに遠くから、何を言えたとも思わないけど)
今の柚木と会話を交わさなくて済んだことに、香穂子は心の底から安堵した。
「香穂ちゃん?行くよー?」
数メートル先を歩いていた友人達が、いつまでも追い付いてこない香穂子を怪訝そうに振り返っていた。「あ、ごめんね」と答えながら、今度は迷いなく駆け足で友人達に追い付いた香穂子は。
中庭にいる柚木の視線が、改めて自分を追っていたことに、気付かなかった。
「昼間、渡り廊下から俺のことを見ていたろう?」
放課後の屋上。
……ここにいれば、柚木に捕まってしまうと分かっているのに、何故かここに足を運んでしまう自分が、香穂子は不思議だった。
月森や志水の姿も頻繁に見かける場所なのに、こういう時に限って、誰も屋上にはいない。
勿論、そういう状況を見越しているからこそ、柚木は素のままの自分で、香穂子に声をかけてくるのだろうけど。
「見ていたっていうか、……いつもどおり、すごい、人に囲まれてるなって。……それだけですけど」
柚木の方を見つつも、何故か視線を合わせることが出来ず、香穂子は柚木の肩先の辺りを見つめて答える。屋上の柔らかな風に、柚木の綺麗な髪が緩く流れた。
「……お前、もう少し自分が感情筒抜けにしてるってことを自覚して行動した方がいいと思うぜ。俺が言えた義理でもないが、それじゃ簡単に騙される」
「……何の、話ですか?」
戸惑いながら香穂子が問うと、柚木はゆっくりと腕を組んで、溜息を付いてそっぽを向いた。
「お前に同情される覚えはないってこと」
渡り廊下から、自分を見下ろす香穂子の視線。
少し眉を寄せて、痛いものを見るように。
自分の心の中にある感情を、そのまま表に滲み出させる香穂子の素直さが、その視線で全てを物語っていた。
本心を見せられない柚木が。
……とても、可哀想だと。
自由に、奔放に。
楽しいと言う感情一つで生きていけるお前には。
哀れに見えたのか?
窮屈に生きる自分が。
「そんな……っ」
……可哀想だと。
多分、自分が柚木に対して持っている心を、一番近い形に押し込めれば、そういう言葉になるのだろうと思う。
でも、同情したりしていない。
哀れみでも、ない。
柚木の笑顔が、哀しいのは。
……それは……!
「違うんです、だからそれは……!」
思わず香穂子は、勢いよくベンチから立ち上がる。
……当然、膝の上に乗せていた束ねた楽譜も、勢いよくばさっと音を立てて、屋上のコンクリの上に、見事にぶちまけられた。
「……………………」
「……………………」
足下に散らばった楽譜を眺め、しばし柚木と香穂子は沈黙する。
はあ、と大きく溜息をついて、香穂子はその場にしゃがみ込んだ。手の届く場所に落ちた楽譜を一枚一枚、のんびりと拾い上げていると、ふと頭上が陰った。
視線だけを上げてみると、数枚の楽譜を拾い上げた柚木が、その楽譜を香穂子に差し出していた。
「……お前、間抜け過ぎるよ」
くくっと楽しそうに喉の奥で笑った柚木の笑顔に。
香穂子の胸は、締めつけられそうに痛む。
彼の笑顔が、哀しいのは。
それが柚木の、本当の笑顔じゃないから。
哀れみだとか、同情だとか。そういうことじゃなくて。
(……先輩は、気付いてないの?)
香穂子をからかう時。
単純な反応を見て、楽しんでいる時。
馬鹿にするような、嘲るような笑顔の、ほんの隙間のような場所。
隠すようにして。
優しい笑顔を、微かに見せること。
本当の、偽りない笑顔を。
無邪気で、年齢相応の、あどけない笑顔を
香穂子は見つけてしまったから。
……笑える人なのに。
楽しいこと、嬉しいことに。
本当は、素直に笑える人なのに。
その感情すら、家のために押し殺さなきゃならない。
それが、当たり前だと、この人は思っている。
多分、きっと。
そのことが、香穂子は哀しい。
「……何て顔してるの」
差し出された楽譜を受け取る香穂子の顔を眺め、苦笑する柚木が、ぱし、と楽譜で、香穂子の額を叩く。
楽譜に遮られた視界の向こうで、柚木がどんな表情をしているのか、香穂子には、分からなかったけど。
「お前が同情することも。……傷付く必要も。……ないんだよ」
その言葉だけが。
……優しかったから。
彼が当たり前に見せる全てのものが、上辺だけのものだと知った時。
香穂子は、悔しくて、哀しくて。
……そして、知りたいと思った。
上辺で取り繕ったものの奥に隠された、彼の本当の姿。
あの、他人を見下すような、意地悪な一面がそうなのかと初めは思っていた。
でも、香穂子は。
見つけてしまったから。
無邪気に、あどけなく。
そして、優等生としての上辺とも。
意地悪な裏の面ともそぐわない。
……柔らかく、穏やかな。
柚木の、本当の微笑み。
のろのろと、スローモーションの動作で、ずり落ちて来た楽譜を手に取って、視界をオープンにすると、もう既に柚木の姿は目の前にない。
誰もいない、静かな目の前の風景が、じわりと水の中に沈む。
確かに、その根源に触れたと思うのに。
すり抜けて失くなってしまう覚束なさ。
見つけて、手を伸ばしても。
あの人は、絶対に捕まらない。
「……柚木、せんぱい……」
座り込んだその場で、揃えた両膝に顔を埋めて。
香穂子は、小さな声で、捕らえられないその人の名を呼んで。
……泣いた。
ほんの少しだけ垣間見える、香穂子が見つけた『本当』の柚木の笑顔。
それはきっと、柚木が触れられたくはないと願うはずの、深い、深い場所から生まれてくるものだから。
香穂子が間違いなく、その深い場所に辿り着くその時まで。
多分、この恋が叶うことは……ない。
だから。
彼の本当の笑顔が、見られても、見られなくても。
香穂子の心は。
どちらにしてもひどく、……痛む。
あとがきという名の言い訳
だから、もうちょっと穏やかな話を書けばいいものを、なんで痛い話を書きたがるんだ(笑)
でも木日の香穂子視点で、切ない系の話は書いてみたかったんで、自分的には満足です。もうちょっと書き様はあったのかもしれませんが……
柚木は、黒柚木以外にも別に隠した顔を持ってて、そこが本質なんじゃないかなっていつも思います。
そこがヘタレで可愛い部分なのよ(笑)


