(……間抜け面……)
吹き出しそうになる自分を、喫茶店の店内、周りの人間たちの視線を考慮して、すんでのところで耐えていると、数秒後に香穂子のポーズボタンが柚木の預かり知らぬところで解除されたようだった。
「それって、これからもフルート、続けるってことですか?」
「星奏の付属大学なんて、法学部があるわけじゃなし、政経学部があるわけじゃなし。フルートがメインでなきゃ行く理由がないだろ?……ああ、すみません。同じものをもう一杯お願い出来ますか?」
呆れたように溜息混じりに言った直後、側を通りがかったウエイトレスに、柚木は見事、完璧に整った余所行きの微笑で、お茶のおかわりを注文した。その、香穂子から見れば既に恐ろしいばかりの優雅な微笑に魅入られたウエイトレスが、は、はい!と上擦った声で返答し、頬を赤く染めながら、空になった柚木のティーカップを引き上げて行った。
またこの人は……と内心香穂子は頭を抱えるが、もうこれが彼の標準装備だと言ってしまえば、それまでだろう。
「それに、進学する大学がどれかなんて、実際のところそんなに説得が難しいとは思っていないよ。……本番は、その先だろう?」
「……その、先……」
視線を伏せた柚木の言葉を、香穂子がただ、おうむ返しに繰り返す。
分かってないな、と柚木は心の中で苦笑した。
その時、「お待たせしました~」の一声と共に、ウエイトレスが迅速に運んだダージリンティーのカップが柚木の目の前に差し出される。ありがとう、とこれまた穏やかな微笑で答えておいて、柚木は香穂子に与えるための答えを告げるのに、意味もなく銀のスプーンで濃い色の紅茶をひとかき混ぜて。
口元へ運んで、喉の奥を潤すだけの、僅かな時間を費やした。
「……お前のことを、認めさせなきゃいけないだろう?……俺の、恋人だと」
……進路のことは、どうにでも言い訳がつく。
幸いにも、校内外に定評のある学内コンクールでは、柚木はそれなりの成績を残している。祖母の言い分としては、フルート奏者になるなどという進路はもってのほかなのだろうが、そうしてある程度の箔をつけることを、そこまで頑に厭うとは思わない。
それなりにレベルの高いコンクールに出て、しかるべき成績を残せば、そういうステージを好む上流階級の人間達に、柚木の名前を印象づける効果もある。
そういう利点を強調してやれば、柚木梓馬という個人の将来は案じなくても、『柚木』という家柄そのものを重んじる祖母にとって、マイナスの印象は与えないはずだった。
だが、香穂子は違う。
例えこれから、香穂子がどれだけ有名なヴァイオリニストに成長したとしても、身分・家柄を持たない香穂子は、祖母の視界の中には入らない。
……どれだけ、香穂子という存在が、柚木に必要な者であったとしても。
祖母にとって必要にならない彼女が、祖母に認められることはないだろう。
向かい側の席で、目を見開いて息を呑んだ香穂子を見つめ、柚木は静かに口を開く。
「……俺はね、香穂子。現時点で、お前以外の人間を必要だとは思わないよ。俺が生きる未来に、お前以外の人間はいらないと言って、過言じゃない。だから、お前と手に手をとって、逃避行という選択も、悪くはないと思ってはいるんだけどね」
一旦言葉を切って。
柚木は楽しそうに笑って、頬杖を付く。
「登るのが困難な山なら、余計に登ってみたくなるってものだろう?」
逃げることは、容易い。
そうすることに、躊躇いもない。『柚木』という家は、自分にとって、決して居心地がいい場所などではないから。
香穂子が手に入るなら、全てを投げ出しても構わないとすら思う。
……そして、彼女がそれに付き合ってくれる女だということも知っている。
だが、できるなら。
それが、どれだけ困難なことなのだと分かっていても。
柚木は、認めさせたかった。
柚木家の全ての人間に。そして自分達を取り巻く全ての人間に。
この目の前の存在が、自分のものであることを。
「……そ、……それって……」
震える両手を、綺麗に磨かれたガラスのテーブルに、ぎゅっと押し付けて。
細い声で、香穂子が呟く。
「……私、信じてて、いいんですか……?」
香穂子の、ほぼ想像通りの問いかけに。
柚木は、更に楽しそうに笑った。
「……さあね?」
「なっ……!」
あんまりな柚木の返答に、思わず絶句した香穂子の。
その、テーブルに置かれた手の甲に、伸ばした指先で、柚木が触れる。
弾かれたように顔を上げる香穂子に、柔らかく微笑んでみせた。
「俺のこの言葉が、信じるに足るのかどうか。……判断するのは、お前だろう?」
どれだけ、柚木が信じろと言い聞かせてみても。
香穂子にその気がなければ、意味がない。
どんな荒唐無稽な未来でも、一緒に歩いて行こうと願える。
その覚悟が、彼女の中にないのなら。
(まあ、だからといって、手離す気もないけどね)
心の中で呟いた一言は。
今はまだ、彼女に告げることはないけれど。
それでも。
「ただ、これだけははっきり言っておく」
彼女の手を握る手に力を込めて。
迷いない声が、言葉を紡ぐ。
「もう、お前には。俺は嘘を付く理由がないよ」
嘘で塗り固めた自分自身も。
本性だと称した強気の自分の裏にあった、ひどく弱い自分も。
もう、全ての柚木を、彼女には曝け出してしまったから。
取り繕う必要も、偽る理由もない。
彼女に見せる姿が。
言葉が。
柚木が持つ、彼女に与えられる、真実の姿。
その真実を信じられるか否かは柚木の判断する領域ではない。
それはもう、全て彼女の心の強さ次第で。
あとがきという名の言い訳
無印ベースです。周りの柚木ファンから、香穂子と手に手をとって逃避行、貧乏アパート生活も悪くない、みたいな話を聞くんですが、本気でこの人がそれに甘んじてくれるのかと言う疑問は残る(笑)
困難なら困難で、逆に意地でどうにかしたくなるタイプのような気がしてるんですが……?


