渡り廊下を歩いていて、風が運んで来た聞き覚えのある声が形作った言葉に、香穂子は足を止める。
思わず声の方を振り返ってみると、深く、丁寧に一礼をした女の子が、涙が溢れそうな目で一瞬香穂子を見、恥ずかしそうに頬を染めて、香穂子の脇をすり抜けていった。呆然と香穂子がその背中を見送ると、今度は背後から驚いたような声が響く。
「……日野さん!?」
慌てて香穂子は自分の名前を呼んだ人物を振り返る。
驚いたように大きく目を見開いた加地が、そこに立っていた。
「……ふふっ、変なところ見られちゃったね」
教室に戻るために肩を並べて歩きながら苦笑した加地に、香穂子は大きく首を横に振った。
「ううん、私が余計なところに顔出しちゃったから……あ、勿論、偶然で。聞くつもりなんて全くなくて……」
「うん、分かってる。内容が内容だけに、僕がもうちょっと場所に気を使うべきだったんだよね。……ごめんね」
……少しだけ、加地に元気がないように見えるのは、誰かの想いに応えられない自分に罪悪感を感じるからなのだろうか。
そんな痛い場所に不用意に踏み込んでしまった自分を反省する傍ら、全く別の部分を気にしている自分に香穂子は気付いていた。
(加地くん、好きな人……いるんだ……)
別に加地に好きな人がいたって構わないし。
健全な男子高校生なのだから、恋のひとつやふたつ、していて当たり前なのだろうけど。
改めて加地の口からそういう台詞が出て来たことに。
何故か、心の奥の方がざわめく。
静かな渡り廊下に、二人分の足音だけが響いて、香穂子は自分が黙り込んでいたことに気付く。はっと我に返って、隣の加地を仰ぎ見ると、香穂子より遥かに高い目線で、加地は廊下の向こうを見つめていた。
……沈黙に気付くと、その沈黙が怖い。
「あ、あのっ! 加地くんの好きな人って、どんな人?」
「えっ……?」
弾かれたように香穂子を見た加地に、香穂子はさーっと自分の血の気が引いていくのを感じた。
沈黙を何とかしたくて、発作的に出て来た質問とはいえ、よりにもよって、あの場面を見てあの会話をした後で出てくるのがこんな質問だなんて、あまりにも失礼なのではないだろうか。
「ご、ごめんね!興味本位とか、そういうんじゃなくて、加地くんみたいな人が好きになる人ってどんな人なのかなあって思って……あ、でもどうしても知らなきゃってことじゃなくて!」
どう言い訳してみても、興味本位にしか取れないということに気付く香穂子が、しどろもどろになっている。そんな香穂子を見下ろして、加地は空を見据えながら、口元に手を当てて、香穂子に聴こえない声でぽつりと呟く。
「……気にしてくれてる辺り、ちょっとは脈有り?」
「あ、えっと。何か言った?」
「ううん」
にっこりと爽やかな笑顔で加地は首を横に振った。
立ち止まってしまったことに気付き、大きなストライドで踏み出しながら、肩ごしに香穂子を振り返った。
「……当たり障りのない程度なら、話しても構わないよ。……聞く?」
「あ。……………………………………うん」
加地の申し出に、香穂子はぽかんと口を開け。
数秒間、いろいろ心の中で葛藤しつつ(外から見ていたら、その葛藤部分すらくるくる変わる表情で筒抜けだったけれど)、最終的には知りたい欲求に勝てず、唇を引き結んでこくりと頷いた。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけて」
普通科校舎の屋上。教師連中でもおそらく知らない人の方が多いという加地お気に入りの穴場で、途中の自販機で購入したミルクティーの缶を、加地は香穂子に差し出した。
コンクリの出っ張りに腰を下ろした香穂子が「ありがと」と恐縮しつつ、両手でそれを受け取った。加地は香穂子の隣に腰を下ろし、ブラックのコーヒーのプルトップを引き開けた。
「……で、僕の好きな人の話だっけ?」
「う、うん……」
歩きながら、ついでみたいな話でよかったのに、どうしてこんな本格的なことになったんだろう。
困惑しつつも、香穂子は落ち着くために、加地に奢ってもらった甘いミルクティーを一口、口の中に含んだ。
「そうだね……一言で言えば、『手の届かない人』。……かな?」
「ええっ!」
香穂子は本気で驚いた。
転校してきた頃の噂によれば、編入試験の成績は学校始まって以来の高得点(噂につき、多少誇張されている可能性はあるが)の秀才だというし、元々テニスをやっていたというところから、スポーツも得意なようだし。
……外見に関しては言わずもがな。先程のように告白されることも多いらしいし(天羽談)、香穂子から見ても、造作的なことは勿論、加地のまとう雰囲気には人の目を惹き付ける華やかさがあるのだ。
そんな、完璧な人が『手の届かない人』だなんて。
どんな、すごい女の子なんだろう……。
「優しくて、可愛くて。いつも一生懸命なんだ。側にいると暖かくて。……居心地がいい」
うっとりと言葉を並べ立てていた加地が、最後の一言だけ、ぽつりと。
落とすように、柔らかく、静かな声で呟いた。
微笑んで、目尻を染めた横顔に。
……ホントに好きなんだなと、香穂子は優しい気持ちになった。
(……あ、……れ?)
それと同時に、鼓動が一つ、大きく跳ねた。
あまりにも、大きく揺らぎ過ぎて。
……痛いくらいに。
「……日野さん?」
加地の声に、香穂子がはっと我に返る。
いつの間にか、片手で胸を押さえ、心無しか前のめりになっていた香穂子を、加地が心配そうに見つめていた。
その眼差が。
優しくて、暖かかったから。
その、加地の好きな人も、こんなふうに見つめられるのかな。
それとももっと、……甘く、愛おしく、見つめられるのかな。
そんなことを考えると、余計に息苦しくて。
「日野さん……」
「ううん!違う、大丈夫!」
ふるふると首を大きく横に振って、香穂子は自分の心にどんよりとのしかかろうとした重い色のもやを振り払う。
……そう。加地がいつだって香穂子の力になってくれるから。
自分が加地の力になれる時は、何でもしてあげようって。
ずっと、そんなふうに思っていたではないか。
「加地くん! あのね、私でできることだったら、何でも協力するから!」
「え?あの、日野さん?」
「勿論、誰のことかなんて言わなくていいけど。でも、愚痴とか聞くし。頼りないけど、相談にも乗るし」
任せて、と香穂子は笑顔で胸を叩いて。
「心配しないで、加地くんなら絶対叶うよ! 大丈夫!」
と、自信満々に太鼓判まで押してくれた。
「あれは、全く伝わってなかったなあ……」
練習室に予約入れてるから、と慌てて立ち去っていった香穂子が置いていった、空のミルクティーの缶。
それを指先でつつきながら、加地は大きく溜息を付いた。
(加地くんなら、絶対叶うよ)
……ねえ、それは。
君が叶えてくれなければ意味がないんだって、ちゃんと分かってる?
僕にとって、手の届かない眩しい存在。
それは君なんだって、教えたらどうするの?
心配いらないの?
全部、叶えてくれるの?
それは、君が僕を好きになってくれること。
僕の手を、君に届かせてくれることを意味してるのに。
「自分だなんて、これっぽっちも思ってないんでしょう……?」
片膝を立てて頬を寄せながら、香穂子の残した缶をゆらゆらと指先で揺らして、加地はゆっくりと目を閉じた。
僕の願う輝く星が。
手の届かない眩しい存在が自分自身だってことに、君が気付いていないから。
残酷なほど、無邪気に。
かみ合わなくなる、君との会話。
あとがきという名の言い訳
にぶにぶ天然香穂子と、黒い加地のかみ合わない会話(笑)
香穂子が自分自身に持ってるイメージと、加地が香穂子に持ってるものはすごくギャップがありそうで、話題になってるのが誰だか分からないうちに二人で「加地の好きな人」について語らせると、その会話はかみ合わないような気がしました(笑)


