休日前の夜遅く。
突然かかって来た携帯の通話ボタンを押すと、こんばんはの挨拶も、名前を名乗ることもなく、勢いよく告げられた言葉に、香穂子は意味もなく耳から電話を離して、まじまじとオフホワイトの携帯電話を凝視する。
言われた内容を頭の中で反芻してみても、あまりよく意味が分からなくて、香穂子は溜息混じりに携帯を元の耳の側の位置に戻す。
「あのね、天羽ちゃん。明日私は予定があるんだけど……」
今日会った時に、加地と新しい雑貨屋を覗きに行くんだという話はしたはずだ。
忘れたとは思わない。相手はあの天羽だから。
……わざと予定を合わせているのかとは思う。相手はあの天羽だから……!
「そんなこと分かってるよ! だから、朝8時って言ったじゃん」
確かに、加地との待ち合わせは11時。3時間の余裕がある。でもだからといって、わざわざ天羽の家まで押しかける意味が分からずに、香穂子は怪訝に眉を寄せた。
「あ、ちなみに加地くんは11時に私の家まであんたを迎えに来る予定だよ」
香穂子の眉間に増々深い皺が刻まれる。あまりにも手回しが良すぎるのだ。
「……天羽ちゃん、いったい何を企んで……」
「……人聞きが悪いな。香穂の悩みを解消する手助けをしてやろうという、涙物の友情なのに……」
電話の向こうで、拗ねているような気配がする。だが、天羽の好奇心に散々振り回されて来た身の上としては、そこで簡単にほだされないのもある種の経験だ。
「悩みって、何だっけ?」
「……今、華麗にスルーしたよね、一番肝心な私の言葉」
増々拗ねたような声になるが、まいっか!と電話の向こうで天羽は開き直った。……そういう反応をすると分かっているからこその、香穂子の冷めた応対ではある。
電話をかけてきた時のままの明るい声で、気を取り直したように天羽は言った。
「明日は、あんたを思いっきり着飾ってやろうじゃないのさ!」
女性の目に嫌でも止まるような魅力的な人が彼氏になると、予想外の苦労を背負い込むことになるのだと、香穂子は初めて実感した。
もちろん、誰に何を言われようと、せっかく掴まえた加地の手を離す気なんてないのだけれど、聞かないように努力しても否応なく聞こえて来てしまう誹謗中傷に、加地への想いとは全く関係ないところでへこんでしまう。
一番良く聞こえてくるのは、加地と香穂子が並んで立つと、香穂子が見劣りするという、くだらない外見の評価。……くだらないとは思うし、両親から引き継いだ遺伝子で作られている自分の外見を、嫌だと思ったことはないけれど。
「ミラーハウスの歪んだ鏡見るみたい……私、こんなに駄目駄目な外見してたんだって気付かされるよ」
遠くを見つめ、机の上に頬杖を付いて嘆く香穂子に正面の席を陣取る天羽が重い溜息を付いた。
「いや、今周りで流通してるあんたの外見の評価は、悪意ってやつでできてるもんだからさあ……」
「でもやっぱり、ちょっとは気を使った方がいいんだよね? このまんまじゃ加地くんにも悪いし……」
「……加地くんは全くもって気にしないと思うけどね」
肩を落として呟く香穂子に、第三者の目線から見て、どう曲解しても香穂子にべた惚れな加地の姿を思い返して、天羽は明後日の方向に視線を向けた。
「……ああ、でも。あんたがそんなに気になるんなら、ちょっと当てがあるんだ。確実に話が通ったら、やってみよっか」
「え……う、うん?」
主語のない天羽の言葉はよく意味が分からず、香穂子は曖昧に頷いた。
……そういえば、そういうやり取りをしたことがあったなと思い出したのは、天羽の家で、騒動が開始されてからだった。
「や、ちょっと、ありえなくない?」
「何で! せっかく細い脚してんだから、出しなさいよ。勿体ぶらずに!」
真っ赤になってわたわたと慌てる香穂子に、強気の天羽が言い返した。
香穂子は膝の上くらいまでしか丈のないワンピースの裾を指先で伸ばそうと引っ張ってみるが、その手の甲を痛くない力でぱしんと天羽に叩かれ、たしなめられた。
「堂々としてれば、気にならなくなるって。……うん、いい感じ。似合ってるよ!」
香穂子の肩に片手を置いて、少し離れた位置から香穂子の頭から爪先までを確認した天羽は、満足げに笑ってそう言う。
……友人のよしみがあるとはいえ、言いたいことは溜め込まずにすぱっと言ってしまう天羽のことだから、その評価はある程度素直に受け取っていいのだろうが。
ちらりと香穂子は天羽の部屋に置いてある姿見に視線をやる。
天羽のバイト先である写真屋で知り合った、服飾デザインの専門学校に行っている子からもらったものだと言っていた。柔らかな白色の、肌触りのよい生地のワンピース。襟元にアクセントの少し濃い碧色のレース。……ただし、香穂子が今まで着たことのあるワンピースの中でも、この丈の短さは初めてだ。
「靴はちゃんとこの間一緒に買ったやつ、持って来たんでしょ?」
「う、うん」
天羽とショッピングに出かけた際、一目で気に入って、奮発して買ったもの。踵は低めだけれど、ちょっとシックなデザインだったから、なかなか履く機会がなくて、棚の中にしまいっぱなしにしていたものだ。
「あとは、髪とメイクね。その辺はおまかせあれ!」
「あの、だからね、天羽ちゃ~ん?」
香穂子の情けない声は問題にされず、数十分後にはきっちりメイクとお洒落を施した、いつもと違う自分が出来上がっていた。天羽は自分の『作品』に御満悦の様子だったが、鏡を覗いてみて、香穂子は何となく落ち着かない気持ちになる。
確かに、コーディネイトは完璧で、メイクも丁寧で。まるで自分じゃないみたいな艶やかな自分が、鏡の中にいる。だが、その『出来上がった』自分に反比例するように、その中身の自分自身はどうしようもなく戸惑ったままなのだ。
そして、この騒ぎがここで終わるのならばそれでいい。
だが、今から香穂子は、この姿で加地と顔を合わせるのだ。
「……おっ、タイミングいいね!」
マナーモードで小刻みに振動を始めた携帯のディスプレイを一瞥して、天羽がにやりと笑う。相手が加地だということが、すぐに香穂子にも分かった。鼓動が一つ、跳ねる。
「おっはよー。……うん、準備オッケー。見て驚くなよ、加地くん!」
電話にそう宣告して、天羽は玄関のドアに駆け寄って、勢い良くそれを開ける。「おはよう、天羽さん」と言う加地の声が、天羽が開け放ったドアの向こうから聞こえて来た。
「香穂さんは?」
「ちょっと待ってね。……ほら、香穂!お迎え来たよ」
こちらに身を乗り出すようにして、天羽が香穂子を呼ぶ。……躊躇はあったものの、そのまま立て籠るわけにもいかなくて、香穂子は床の上に置いていたバッグを持ち上げ、恐る恐る玄関口に近寄っていった。
「靴、履くから。ちょっと待ってて」
少し履きづらい靴を履くために身を屈めると、一つ頷いた天羽が「どうよ?」と表の加地に告げ、突然ドアを大きく押し開いた。
心の準備が間に合わず、香穂子はぎょっとして上目遣いにドアの外を見る。そこに立ち尽くしていた加地が香穂子の姿を目にし、一瞬動きを止めた。
しばしの沈黙。加地の反応を待って黙り込んだ天羽と香穂子の視線の先で、加地は意外なほど、穏やかにゆっくりと頬笑んだ。
「……さすが、天羽さん。メイク、上手だね。写真撮るために、勉強したりしてるの?」
「まあ、かじる程度だけど……って、加地くん、感想それだけ? 私結構頑張ったのに!」
憮然として天羽が言うと、加地はにっこりと笑顔で、さらりと言ってのけた。
「だって、香穂さんはどんな香穂さんでも、充分に素敵だからね」
「…………………」
「…………………あっそ。」
げんなりとした天羽が、がっくりと肩を落とした。
(……前言撤回)
加地の盲目さに呆れ返った天羽に見送られつつ、予定していた場所へと出発した加地と香穂子だったが、香穂子は十数分歩いて、最初に「いつも通りだなあ」と思った加地の評価を、撤回する気になる。
いつも通り、どころではない。
明らかに、おかしい。
いつもだったら、二人で人が多い場所へ出かける時には、「香穂さんとはぐれたら、僕が困るから」と手を繋いでくれるし。ちゃんと香穂子の方を見て、話しかけてくれるのに。
確かに、話しかけてはくれる。
会話はいつも通りの、加地らしい豊富な話題で。
だけど、加地は一度も香穂子を振り返らない。手も繋いでくれようとはしないし、いつも二人が当たり前のように過ごしている距離から、ちょっとだけ離れている。
(……呆れ、ちゃったの……かな)
本当は。
本当は、外見だけを着飾っても、意味がないって分かっていた。
だけど、加地は本当に素敵な男の子だから。
それが背伸びでも、無茶でも。
少しだけでも、釣り合うようになりたくて。
天羽の強引さにはびっくりしたし、こういう可愛らしい格好が自分に不釣り合いだということも分かってはいたのだけれど。
それでも、香穂子は心の奥底で、ずっとずっと願っていたのだ。
変わりたいと。
少しでも、加地に相応しいと認められたいと。
でも。
そういう気持ちそのものが。
無駄なんだって、知っていた。
別に加地が、香穂子の外見について特に何か不平を言う人なんかじゃないんだって。
……知っていた、のに。
かつ、と。
慣れない靴の爪先が、道路の段差に躓いた。
それに気を取られて、地面を見つめて。
そして、顔を上げた時には、手を離したままだった加地の姿は、人込みの中にまぎれて見えなくなっていた。
はぐれた加地を追いかけて探そうと思う前に。
携帯で居場所を聞いて、捕まえようと思う前に。
香穂子はそこから、一歩も歩けなくなった。
近くにあった広場の噴水の縁に腰掛けて、香穂子はぶらぶらと両足を揺らしてみた。別に靴擦れが出来たとか、くじいたとかいうわけではないけれど、どうにも足が重い気がして、動けない。
(……多分、はぐれたことに気付いたら、加地くんが電話してくれると思うし……)
どういう気持ちであったとしても、そこで香穂子を放置するような人ではない。だから、電話が来たら。自分がいる場所を教えて。
(もう、帰ろう?って言おう……)
慣れない靴だから。
これ以上は、動けないから。
もう帰ろう。
帰って、いつもの私に戻るんだ。
……加地のために飾り立てたものが、自分に何の変化ももたらさないまま。
外されてしまうのは、淋しいけれど。
そんなことを考えながら、ぶらぶらと揺れる自分の靴を眺めていると、ふと香穂子の視界が陰る。
自分の前に人が立ったことに気付いて、加地が見つけてくれたのかと顔をあげると、そこには見知らぬ男の子が二人、にやにやと笑って立っていた。
「さっきから、ここに座ってるけど、一人?」
「暇なら一緒に遊ばない? 俺らも暇でさー」
交互に話しかけて来たナンパ男達に、香穂子は落胆して盛大な溜息をついた。
「……一応、連れがいますから」
「嘘、さっきから見てるけど、それらしいの、いないじゃん」
さて、どうしよう。
香穂子は困り果てて眉間に皺を寄せる。友達と一緒にいる時にナンパされた経験はあるものの、一人でというのは初めてだ。
そもそも、路上での勧誘といい、この手のことを断るのが、香穂子は苦手だった。
「あの、ホントにいるんです。だから」
「待ち合わせか何か? でも、もう来ないんじゃね? なんだったら、そこのコーヒーショップにでも入って、話してよーよ。そしたら、そのうちに来るかもしんないし」
勝手に提案して、一人が香穂子の手を掴もうと手を伸ばす。さすがにちょっとかちんときて、それを振り払おうと手に力を入れた時だった。
「香穂さん!」
まったく予想外の方向から手が伸びて、香穂子の手首を掴んだ。
その繊細な指先と。
柔らかだけど、どこか慌てたような声は、香穂子がそうとは意識せずとも、心地がいいと思えるもの。
「……ごめん!」
息を切らせた加地が、香穂子の顔を覗き込む。
……その、必死で自分を探してくれたということが一目で分かる、真剣な表情に、香穂子の涙腺がふわっと緩んだ。
「か、加地く……」
安堵して、思わず涙声で名を呼んだ香穂子に、一つ頷いて。
加地は、呆気に取られているナンパ男二人を、くるりと振り返って笑った。
「……ごめんね?」
「え?……ええっ!?」
加地の手に掴まれた手首を引き寄せられた香穂子が、一瞬後に素頓狂な悲鳴をあげる。
ひょい、と香穂子の身体を肩に担ぎ上げた加地は、男達の顔をかわるがわる見据えて、きっぱりと言ってのけた。
「この子、僕のだから」
言い捨てて、すたすたと大きなストライドで人込みを縫っていく加地と、担ぎ上げられた香穂子の姿を、なす術もない男達は、呆然と立ち尽くして見送った。
「……気がついたら、後ろにいないんだもん。びっくりして探し回っちゃったよ」
「ごめんね。……途中で躓いちゃって。慣れない靴だから、ちょっと足が痛くて」
一人でいた時に考えていた言い訳を、香穂子がぽつりと呟いた。
まだ、加地に担がれたままで、彼の表情は良く分からない。加地の背中にしがみついて、落ちないように身体を支えながら、香穂子は加地の返事を待った。
「……違うよ。……僕のせい、だよね?」
ぴたりと加地が足を止め、ゆっくりと香穂子の身体を下ろす。側のベンチに座らされ、ぱちりと香穂子が瞬きすると、身を屈めるようにして加地が香穂子の顔を覗き込む。……その、目尻が赤く染まっていた。
「ごめん……香穂さんが気にしてるの、分かってたんだけど。……今日の君が、あまりに素敵だったから。僕、直視出来なくて」
「……え?」
「そのワンピース、すごく似合ってて、可愛い。だから、照れくさくて、正面から香穂さんのこと、見れなかった。……ごめんね」
苦笑して加地が首を傾げた。
……呆れられたんじゃ、なかった。
それがはっきりと加地の言葉で証明されて、香穂子は安堵すると同時に。
……脱力する。
「……全然、こっち……見てくれなく、て。手も……繋いでくれなくて、私、馬鹿みたいに、着飾ってて、呆れちゃったのかなって……怖かったんだからあっ」
力が抜けたら、ぼろぼろと涙が零れて来た。しゃくりあげて、不自然な位置で言葉を途切れさせる香穂子に、加地が申し訳なさそうに身を縮めた。
「本当に、ごめん。……でも、一応自制心総動員で、僕は僕なりに頑張ってたんだよ。そこは誉めて欲しいんだけど」
「……自制、心……?」
涙目で、加地を上目遣いに見上げる香穂子に、加地はふふ、と小さく笑う。
「……こういうこと」
手を伸ばして、香穂子の頬に流れる涙を拭う加地は、そのまま柔らかく、香穂子の唇に口付ける。
いつもの君とは違う、艶やかな姿。
そして、綺麗なピンク色に縁取られた、艶やかな唇。
そんな魅力的なものを、目の前に突き付けられたその日には。
触れずにいられなくなるじゃない?
あとがきという名の言い訳
加地め……!(加地のせいなのか?)
もうちょっと、軽く短くあっさりラブコメを書く予定だったのに、予定外に加地が黒いデス!
ヘタレもいいけど、黒加地も捨て難いな、と、こういうお話をば。
天羽ちゃんとのあれこれは、書いてて楽しいです。こういうエピソードを入れると、楽し過ぎて無駄に長くなるのが欠点ですが。


