子供なんかじゃない

加地×日野

 彼にとって、自分という存在が。
 本当に『女の子』として見られているのか。
 それとも、ただ、彼好みのヴァイオリンを弾くだけの人間だと思われているのか。
 時々、分からなくなるから。




「……地くんもさ、かっこいいのに、相手があれじゃね」

 喧噪の中にまぎれてる悪意を、不本意ながら耳に止めて、香穂子はぴたりとカフェテリアの和風パスタに突っ込んだままのフォークを握る手を止めた。
 正面に座っている天羽が「ん?どしたの?」と気遣ってくれる。何でもないよと笑って誤魔化して、香穂子は後三分の一ほどパスタが残ったままの皿の上に、フォークを置いた。
「食べないの? まだ授業まで時間あるよ」
 きょとんとした天羽が、香穂子の食べかけのパスタを指差して、尋ねる。
「うん……ちょっと、食欲なくて」
「駄目だよ、ちゃんと食べなきゃ。ただでさえ、あんた頑張り過ぎてるんだから、食事と睡眠は充分とって、体調管理しないと」
「……うん」
 怪訝に眉を寄せて香穂子を諭す天羽に、苦笑した香穂子が頷くだけ頷く。
 それでも結局、冷えていく残りのパスタには、最後まで手は出なかったけれど。


 彼は、いつだって香穂子のことを誉めてくれる。
 でも本当は、謙遜する彼の方が、ずっとずっと優れている人だということを、香穂子は知っていた。
 誰に対してだって人当たりがよくて。
 スポーツは得意だし、頭もいいし。
 行動的で多趣味だから、話題の引き出しも多い。
 ……外見的にも整った人だから、女の子が騒ぐのも充分分かる。
 そんなふうに、ある意味女の子の理想を体現したと言っても過言でないくらいに、完璧な人だから。
 余計に分からないのだ。

 ……何故、そんな人が、香穂子なんかを好きなのか。


「……香穂さん」
 傍らから小さな声で名を呼ばれ、香穂子がはっと我に返る。声の方に視線を向けると、どこか心配そうな顔をした隣の席の加地が、香穂子の顔を覗き込んでいた。……そういえば、授業中だったのだ。
「何? 加地くん」
 黒板に板書中の教師に気付かれないように、香穂子もまた小声で応じると、増々眉間に皺を寄せる加地が、ひそめたままの声で言った。
「具合、悪い? 顔色が真っ白だよ」
「……そうかな。……そんなこと、ないと思うんだけど」
 慌てて笑顔を取り繕って、香穂子はそう答える。
 本当は、先程から指の先が冷たい。呼吸は浅く、荒くて。寒気みたいなものも感じている。
 ……それでも、胸の奥の不快感は、別の場所から来るもので。
「我慢しないで。先生に言って、保健室に……」
「い、いいから、加地く……」
 立ち上がりかけた加地の袖を掴んで、それを止めかけて。
 香穂子は、すうっと自分の身体から血の気が引くのを感じる。一瞬目の前が真っ暗になって、咄嗟に机の上に肘をついた。
「香穂さん!?」
 大声で加地が叫び、がたんと椅子を鳴らして立ち上がる。ざわっと教室の中がざわめくのが分かった。
「何だ、加地、日野。うるさいぞ」
「先生、すみません。日野さん、具合が悪いみたいなんです。保健室に連れていっていいですか」
「……ああ、確かに顔色が悪いな。いいぞ、行って来い」
 教師の返答に、一つ頷き返し。
 加地は香穂子に歩み寄る。
 次の瞬間、歓喜のような、悲鳴のような声が教室一杯に響いた。
「か、加地くん……!」
「黙って」
 周りの喧噪は何のその、自分の方が倒れてしまいそうな青ざめた顔で、加地は香穂子の声を制する。
 加地は、両腕の中に香穂子の身体を抱えている。所謂、お姫さまだっこというアレだ。
「では、すみませんが、後よろしくお願いします」
 教師に向かってぺこりと頭を下げ、加地が香穂子を抱えたまま教室を飛び出す。背後から追ってくるからかうような黄色い歓声に、教師が怒鳴り付ける声が、あっという間に遠ざかっていった。



「先生は……いないみたいだね。勝手にベッド使わせてもらおうか」
 静かな保健室に足を踏み入れ、加地は香穂子に話しかけながら、奥のベッドの位置まで入り込む。制服が皺にならないように、ゆっくりとした動作で香穂子の身体をベッドの上に横たえ、薄いブランケットをかけてくれた。
「……多分、貧血だよ。香穂さん、あんまりランチ食べなかったんだってね。天羽さんが心配して、五限が始まる前にメールくれてたよ」
 苦笑する加地に、香穂子は突然泣きたくなる。
 横になれた安堵感も手伝って、溜めているものを、吐き出したくなった。
「……香穂さん?」
 香穂子の変化にすぐに気付いた加地が、怪訝な表情で尋ねる。香穂子は枕に顔を埋めるようにして、加地の視線から逃げた。
「加地くん、教室に戻って」
「……今の君を放って、そんなことできるわけないでしょう?」
「戻って。……もう、これ以上、私の世話なんか、焼かないで」
 子供じゃないんだから、と。
 加地に告げた言葉の語尾は、もう涙声で、言葉になっていなかった。


 こんなことをさせるために、彼を巻き込んだんじゃなかった。
 自分の音楽に絶望したという加地に、少しでも音楽を『楽しんで』欲しくて。
 躊躇っていた彼を、アンサンブルに誘った。
 香穂子自身では分からない香穂子のヴァイオリンの魅力を、加地が知っていてくれるのなら、それと隣り合わせで音を重ねることもまた、彼が素直に音楽を楽しめるきっかけの一つになればいいと思って。
 だけど、それは。
 いつの間にか、加地の日常を香穂子が侵食していっただけに過ぎなくて。
 加地は、守ろうとする。
 彼が愛するヴァイオリンの音色と、それを生み出す香穂子という存在を。
 親が子に与えるみたいな、そんな無償の愛情で。
 そして、香穂子は分からなくなる。
 その加地の無償の愛が、いったい自分の何に向けられているのか。

(だって、他の誰が見ても。加地くんと私じゃ、全然釣り合ってないのに)
 人間的な魅力で考えれば、どう考えても。
 自分は、加地には相応しくないと思うのに。

 その答えはいつも。
 香穂子の『ヴァイオリン』という結論にしか、たどり着けなくて。

 だから、香穂子はもういらないと思ってしまう。
 加地が全身全霊をかけて守ろうとしてくれるものが、香穂子のヴァイオリンであるならば。
 ……たとえ、その加地の愛情が、本当は香穂子にとって、どれだけ幸せで、嬉しいものであったのだとしても。
 もう、それ以上与えられてはならない。
 加地が持つ時間や、思いや、……本来は加地自身のために使われるべきものを、香穂子のために使わせてはならない。
 それは、香穂子のために。
 ……何よりも、加地自身のために。


 香穂子が、声を殺して泣く微かな嗚咽だけが、静かな保健室を満たしていた。
 しばらく黙っていた加地が動く気配がして。
 次の瞬間、香穂子は息を呑んで、しゃくりあげるのを止めた。
 横たわる香穂子の上から、毛布越しに覆い被さるようにして。
 加地が、香穂子を抱き締めるのが分かった。

「違う、……違うんだ、香穂さん。君は、子供なんかじゃない。僕に世話を焼かれているだけなんじゃない」
 華奢な香穂子の身体が、自分の腕の中で動きを止めるのを実感しながら。
 加地は香穂子を形作る身体の曲線を毛布越しに頬で感じて、ゆっくりと目を閉じる。
 溜息をつくように、小さな声で言葉を吐いた。

「……子供なのは、本当は、僕の方なんだ……」


 いつだって、周りに笑顔が絶えない。
 とても魅力的な女の子。
 その魅力は、もちろん、彼女が奏でる素直で純粋な、ヴァイオリンの音色だけじゃない。
 確かに、簡単に言葉で言い表せるほどの分かりやすい魅力というものは、彼女にはないのかもしれない。
 彼女の魅力は、彼女の存在そのものだから。

 彼女は、子供なんかじゃない。
 周りを惹き付ける、魅力ある女性。
 そんなことは、誰よりも、加地が一番よく知っている。

 庇護されることが当たり前で、それだけに満足してくれる存在じゃない。
 だからこそ、加地は彼女のために、自分に出来うる全てのことをやらざるをえない。

 それは、まるで子供が親に縋るみたいに。
 ……親に手を離されたら、世界の全てが終わってしまう、そんな幼子のように。
 全身全霊で、彼女を求めずにはいられない。


「いつ君から手を離されてしまうのか。多分、いつもいつも怯えてるのは、僕の方だよ」
「手を離す、なんて……」
「うん、分かってる。……それは、君のせいじゃなくて」

 ゆっくりと身を起こした加地の手に香穂子の指先がそっと触れ。
 探るように加地の指を辿り、ぎゅ、と強く繋いだ。

 その繋がれた温もりに。
 加地はただ、嬉しそうに。……ほんの少しだけ、淋しさを混ぜて。
 小さく笑った。

「それはただ、僕が臆病なだけなんだ」



 愛する人から手を離される。
 そんなささやかなことが、どうしようもなく、恐ろしい。
 だから、そのたった一つの束縛を守るために、自分の全てのものをかけられる。

 そんなふうに純粋で。
 ただ、愚かなばかりの子供。




あとがきという名の言い訳 

結局はお子様なんだ!という話。あれ? こんなに重めな話になる予定じゃなかったのに(笑)
私的にヘタレな加地は大好物!(笑)
加地のイメージを著しく狂わせてる気がしないでもないですが、書いてて楽しかったです。

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