猫の住処になる、と一部の教師はいい顔をしないが、元々金澤がエサを与えるようになる前から……それこそ、自分が学生としてこの学院に在籍している頃から、森の広場には猫がいた。……ような気がする。
若干数が増えたような気はしなくもないが、特に襲われて怪我だの、鳴き声で騒音等という問題が出たわけじゃなし、それどころか、動物愛護の観点から学生どもにはいい情操教育になるし、最近ではアニマルセラピーなんていうのもあるではないか……と、金澤は自分の行動に対し、正論を並べ立てて、自分を納得させている。
と、いうのも、万が一「ならば、先生が家で飼えばいいでしょう」と反論されてしまっては、返す言葉がないからだ。
癒される存在は欲しい。だけど過重過ぎる責任なら負えない……。我ながら、どこまで卑怯なんだと自嘲するのだが、それでもこれが金澤が歩み寄れる、精一杯なのだ。
(……さてと)
片手の中で、持参した猫缶を弄びながら、金澤は木陰をひょいと覗き込む。猫というのは、自分の本能に関しては賢い生き物だ。どこに、いつぐらいに現れればエサにありつけるのかはよく知っている。事実、天気が悪いとか、やたら周りに人が多いとか。そういう特殊な事情でない限り、いつもと同じ猫が、いつもと同じ場所に陣取っている。
それを知っている金澤も、勝手に名付けた猫の名を呼びながら、当たり前のようにいつも猫が昼寝しているような場所を覗き込んだのだが。
「……おいおいおい……」
思わず漏れた金澤の呟きに応えるように、前足をぴったり揃えて芝生の上に座った猫が、なーん、と一声鳴いた。それもいつもの光景なのだが、今日は一点だけ違う部分がある。
猫がエサを待ついつもの場所には、先客がいたのだ。
「日野……」
天気のいい、暖かな秋の午後。
芝生の上に、無防備に転がってうたた寝しているのは、普通科2年、日野香穂子。
思わず金澤は自分の腕時計の文字盤を確認するが、何度眺めてみても、それは授業中であるはずの時間を指し示している。……それは、そうだろう。自分だって、授業のない空き時間を利用して、ここに来ているのだから。
(無防備にも程があるだろ……)
呆れたような溜息をつき、金澤は香穂子から少し距離を置いた芝生の上に、どっかりと腰を下ろす。状況を熟知している、香穂子の眠りを見守っていた猫は、ぱたりと長い尻尾を振りつつ、金澤にすり寄って来た。
「ハイハイ、今やるからな~」
茂みの陰に隠した専用のエサの容器を引っ張りだし、缶のプルトップを開けた金澤が、慣れた手付きで缶の中身を容器に移し変える。猫の鼻先に差し出すと、勢いよく、エサに食らい付いた。
一心不乱にエサを食べる猫を、頬杖をついて微笑ましく眺めつつ。
金澤は、ちらりと少し離れた場所で眠ったままの香穂子の方へ、視線だけを向けた。
……それは既に、うたた寝のレベルを超えていた。始業の鐘の音にも気付いていなければ、今、正に金澤がここにいることすら気付かずに、すやすやと安らかな寝息を立てているのだから、ある意味ノンレム睡眠の域に達している。
おもむろに立ち上がって。
小さな溜息をついて。
少しだけ気を使って。音を立てないように近付いて。
香穂子の顔部分に、自分自身で影を作って、様子を伺ってみる。眩しさを遮られて、寄せられていた眉間の皺が、ふわっと解けたけれど、それでも香穂子が起きる気配はない。
一瞬、起こすべきかどうかに迷った金澤は、すぐにそれを諦めた。
どうせ、授業が始まってからは結構な時間が経っている。今、起こしてみても、五限に間に合わないことは確実だし、……何よりも。
「……疲れてるよな、お前さん」
香穂子からわずかな距離を取って、改めて芝生の上に座り込み、立てた片膝に頬杖を付きながら、金澤は微かな声でそう呟いた。
突然、彼女が巻き込まれたアンサンブルのコンサート。
彼女の人柄故に、力になってくれる味方ももちろん多いが、音楽への誇りや情熱が強い人物が多い分、その意見をまとめる立場にある香穂子の負担は、きっと想像を絶するものだろう。
ただでさえ、音楽的な知識や経験は足りないというのに。
一足飛びのように早いペースで上達していくヴァイオリンや、彼女がヴァイオリンに傾ける一途な思いから、なかなか気付くものもいないが、彼女は今年の春まで、ヴァイオリンを触ったこともない、素人だったのに。
そんな華奢な彼女の肩には、今やこの学院の未来まで託されているのだ。
可哀想だとか、不憫だとか。
そんな哀れみは、彼女は望んでいないだろうけれど。
それでも様々な逆風の中、懸命に細い両足で立ってその風を受け止める姿には、ある種の尊敬すら抱いてしまう。
……だから。
(まあ、六限までそんなに余裕があるわけじゃないが。……もうしばらく、寝かせてやるとするかな)
前向きで、真直ぐで。
金澤が遠い過去に置き忘れて来た何かを、抱き締め続ける少女。
その歩み行く姿に、傷付いた心は癒されて、立ち止まっていた道の先に、光の存在すら見えてくる。
……そんなふうに、癒される存在は。
自分には、必要で。
叶うのならば、手に入れたい。
……だけど過重過ぎる責任なら、負えない。
少なくとも。
今は、まだ。
食事の終わった猫が、一声鳴いて、金澤にすりよって来る。
しーっと人指し指を唇に当てて、香穂子が起きないのを確認して。
それから金澤は、よっこらせ、とかけ声をかけて。
金澤の献身的な世話で、いい具合に丸くなった重い猫の身体を、ひょいと抱き上げた。
「いつか、……お前さんみたく、……懐に入れてやれれば、いいんだがなあ」
猫にしか聴こえない独り言をぽつりと呟いて。
金澤の腕に抱かれて、気持ちよさそうに喉を鳴らす猫の曲線を描く背中を丁寧に撫でながら。
金澤は、小さな、小さな。
風にかき消されるくらいの音量の、優しい子守唄を歌う。
今、金澤が負える責任の範囲内で。
せめて、彼女の儚い眠り、それだけは。
ほんの僅かな間でも、優しく守れるように。
あとがきという名の言い訳
猫モデルは当時うちにいたお猫様で。
設定としては、2くらいの時系列を思ってるんですが、まだ無印の感覚でいたりします。
ちなみに私、うたた寝というものがあんまりできません。どちらかと言えば瞬間熟睡タイプなので(笑)はっと気が付けば「こんなに寝ちまった!」ってことが多いのです。
「うとうと」の感覚って、数年に1度あるんかなあ……


