その想いを、告げちゃいけない。
その境界線は、どこにある?
本当は定められてなんて、いない。
理性と、モラルとを駆使した判断力で。
誰かの心の中で、勝手に。
その曖昧なボーダーを引くだけで。
相手が自分を好きかどうかなんて、接していれば自然と伝わる。
ましてやこっちは、相手のそういう感情を見逃さないよう、拾い損ねないよう、それこそ必死の思いでアンテナを張り巡らせているのだから。
だから、本当は分かってる。
金澤が、自分をどう想ってくれているのか。
名前を呼ぶ声が、優しくて。
頭を撫でてくれる掌が、暖かくて。
眼差とか、立ち位置の距離とか。些細なことでも、ちゃんと分かる。
そうであって欲しいと香穂子が願う微妙な位置に、図らずも金澤が入り込んでくるせいで。
それなのに、絶対に、言わせてはもらえない。
大丈夫だから、同じ想いがちゃんとあるはずだから。
やっぱり、ちょっとは怖いので、自分の中でそう無理矢理に確信して、金澤にこの想いを告げようとすると。
金澤は、いつもかわす。
するりとすり抜けて、いなくなる。
そして、香穂子の想いは辿り着くべき先をなくして、宙に漂う。
……その理由は、知っている。
金澤は教師で、そして、香穂子は生徒だからだ。
「……だから、なんですか?」
他には誰もいない、音楽準備室。
入口の扉を背に、仁王立ちで香穂子は部屋の中心にいる金澤を涙目で睨み付ける。
一瞬、勢いに押されたように後ずさった金澤は、ふう、と気を取り直すように大きな溜息をついた。
「……分かってるなら、もういいだろう? これ以上、お前さんが俺に何かを求めたとしても、俺は何もしてやれん」
教師と生徒である以上、恋愛事は御法度だ。万が一、心を通わせたにしても、困難が多過ぎる。
おそらく、それなりに大人になってしまった金澤よりも、香穂子の方が辛い。
何かを隠して。誤魔化して。
そんなふうに、何かを堪えながらでなければ成立しない関係は、きっと、彼女を疲れさせる。
「納得したなら、もう行け。……もう、用もなくこの部屋へ来るんじゃないぞ」
静かに、穏やかに告げられた最後通告。
香穂子は、ぐっと唇を噛み締めて。握っていた楽譜のファイルを、増々力を込めて、握り締めて。そして。
……切れた。
ばあん、と、派手な音が狭い室内に響く。
目を丸くして金澤が振り返ると、床に叩き付けられた楽譜の束。ばらけて、飛び散った数枚が、ひらひらと空を舞う。
呆気に取られて、香穂子を見つめる金澤の視線の先で。
堰を切ったように目尻から溢れてくる、香穂子の、大粒の涙。
「……何か、して欲しい、なんて……ひとっことも、言ってないじゃ、ないですか……っ!」
金澤が、自分自身の中で引いている、踏み込めない境界線。
金澤が教師で、そして、自分が生徒である以上、変わらないそのボーダーライン。
だが、金澤の中には存在するその境界線も、香穂子の中には存在しない。
お互いがいる立場上、歓迎されない想いだって分かっている。例え叶ったとしたって、香穂子が考える以上に、ハードルは高いのかもしれない。大っぴらには触れ合えなくて。誰にも打ち明けられなくて。
でも、だったら。
いっそのこと、この想いを殺して欲しい。
「生殺しにするのと、どっちが、ひどいの? 本当に、先生が私との恋愛が駄目って言うなら、先生は私が、嫌いだって言えばいい! お子様はお断りだって、迷惑なんだって、言えばいいじゃない!」
嫌われてないと、分かるのに。
名を呼ぶ声が。
微かに触れる手が。
優しいから。
……愛おしむから。
香穂子と同じ想いじゃなかったとしても、それが『好意』なんだって。
分かって、しまうのに。
香穂子が答えを求めるのは。
今の、この曖昧な関係が、辛いからだ。
生徒だから、教師だから。
好きだから、付き合いたいから。
……そういうことが言いたいわけじゃない。
(教師と生徒だから、恋が出来ないなら、私はどうしたらいいの?)
(『そう』じゃなくなるまで、待てばいいの?)
(それとも、叶わぬ恋だから、諦めなきゃいけないの?)
どれだけ待ってもそれ以上の境界を踏み越えられない。永遠に平行線を辿る想いなら。
もういっそ、金澤の手で、全ての息の根を止めて欲しい。
そう願うから、打ち明けたかった想い。
俯いた足下に、ぱたぱたと降る大粒の涙の雨。
蛇口のどこかが壊れてるみたいで、香穂子にももう止めようがない。もう、流れるに任せてただしゃくりあげてると、ふと陰る視界。
涙目のまま、上目遣いに見上げると、切なげに顔を歪めた金澤が、至近距離から香穂子を見下ろしている。
「……せんせ」
掠れる声で、反射的に金澤を呼ぶと、金澤は困ったように、呆れたように。
小さく、笑った。
「子どもだな、お前さん」
「……別に、いいです。これが、私、だから」
今更、繕うつもりはなかった。
香穂子の手持ちのカードは、全部切ってしまったのだ。
「……子どもは困るよな。真直ぐで、全力でな」
どうせ、と拗ねかけた香穂子が、ふと息を呑む。
更に、陰る視界。白衣の胸元が、至近距離。
仄かに香る、煙草の匂い。
「……俺の、涙ぐましい努力が、全く報われないときた」
「……先生」
腕の中に簡単に収まってしまう、華奢な身体。
その柔らかな髪に頬を埋め、観念したように金澤は笑った。
頑に、これだけは踏み越えてはいけないと定めた境界線。
それなのに、いつだって彼女の存在は、その曖昧な境界線を飛び越えて。
過去の傷に捕われる金澤を癒して、解放して。未来の方へと向き直させる。
彼女のために、自分を諦めさせて、別の恋へ目を向けさせてやった方がいいのだと、分かっていたのに。
それでも、自分の中に生まれる彼女への愛おしさ故に、どうしてもその決断が出来なくて。
苦しめる、迷わせると分かっていながら、きっぱりとした態度は取れなかった。それは、ただ単に。
諦めてくれればいい。自分を、選ばないでいてくれるといいと願いながら、その裏で。
……ずっと、自分を追いかけていてくれればいいと、願ってしまった金澤の愚かさ故だ。
自分の心の中に定めていた境界線を。
金澤の方が、踏み越えそうだった、危うさ故だ。
(お前に好きだと言われたら、もう、我慢が効かなくなると思っていたから)
だから、最後の曖昧なボーダーラインを越えないために。
金澤は、香穂子に想いを告げさせるわけにはいかなかった。
「純粋で、素直で。……めげないな、お前さん」
いつか、その金澤の卑怯さに気付いて、香穂子の方から、離れて行ってくれれば。
それはそれで、金澤にとっては辛い選択だったのかもしれないけれど、それでも一番、安全な道だったのに。
「……めげません」
涙の残る瞳で。
真直ぐに、金澤を見上げて。
彼の腕の中で、香穂子は誇らしげに、笑った。
「先生の言う通り、私は子どもだから。……欲しいものは、欲しいって言うんです」
教師と生徒。
きっと、誰もが歓迎しない恋愛模様。
だが、そんな絶対領域に思える境界も、肩書きを取り払ってしまえば、ただの男と女でしかなくて。
一人の人間として捉えるなら、惹かれる想いは止められない。
不可侵の境界線に見えたとしても。
ひとりひとりの心の中では。
その線引きは、ひどく曖昧。
あとがきという名の言い訳
金日話で香穂子が癇癪を起こす話って、実は書いてみたかったのでものすごく満足です(笑)
ネコの世話焼くくらいに意外に面倒見のいい金やんですから、泣き落しに弱い、かも(笑)
学校っていう狭い枠組みから飛び出してしまえば人間一個人ですから、恋愛御法度とは思いませんが、別の部分で境界線は必要だろうなと思います。


