立ち尽くして、大きな柱に背中を預けたその人物を見ていると、香穂子の視線に気が付いた相手が、小さく笑って身を起こした。
片手を挙げた金澤に、慌てた香穂子が駆け寄った。
「な、何でこんなところにいるんですか?」
「おいおい、そりゃないだろ? わざわざ可愛い恋人の晴れ舞台を見に来たってのに」
尋ねた香穂子に苦笑して、金澤が呆れたような溜息を付いた。そ、そうじゃないのに、と慌てる香穂子の頭に大きな片手を乗せて、くしゃくしゃと掻き混ぜた。
「……なーんてな。お前さんをびっくりさせてやろうと思ってな。こっそり吉羅の奴からチケット横流ししてもらったんだ。……驚いたか?」
身を屈めて、香穂子の顔を覗き込む金澤に、香穂子はきょとんとして。
それから、「びっくりしました!」と満面の笑みを返した。
星奏の付属大学に進学して、約2年。大学で出会った仲間達と、こんなふうに、ささやかな自分達だけのコンサートを開けるようになって。
もちろん、何かと吉羅理事長が援助をしてくれている部分はあるし、高校時代に手に入れた沢山の絆が、今の香穂子を支えていることも事実。
あの頃のように、大きな出来事の中心にいるわけではないけれど、それでも自分には分相応の、それでいて充分な音楽に浸る生活が出来ていると香穂子は思う。
香穂子の卒業と同時に、自分も声楽家の道へ戻ることを模索し始めた金澤も、教師を辞めた。
そうして二人は、お互いがお互いに相応しい場所で、音楽に関わっている。
声楽家としての一歩を踏み出し始めた金澤も、ヴァイオリニストとしての道を歩み始めた香穂子も、今は多忙な日々を送っている。
……だからこそ、こんな小さなコンサートにまで、金澤が忙しさの合間を縫って来てくれるとは、香穂子は思っていなかったのだ。
「小さい小さいと謙遜しつつ、なかなか立派なコンサートだったじゃないか。お前さんならもう少し規模を大きくしても大丈夫なんじゃないか?」
しばらく逢わない間にも確実に成長していく香穂子のヴァイオリン。
耳に残ったその綺麗な余韻を思い出しながら、金澤がそう感想を述べると、隣を歩く香穂子はふるふると首を横に振った。
「今は、すごいヴァイオリンを弾こう、とか、大きなコンサート開こうとか、そういう大それたこと、思ってないから」
ステージの名残り。
淡い化粧と、緩く波を描く髪の先。
いつもより綺麗な彼女が、より一層綺麗に笑う。
「ヴァイオリンの良さを、たくさんの人に知ってもらえれば、それがいいんです」
視線の先、見下ろす位置にあるその横顔に一瞬見とれながら、金澤はらしいと言えばひどく彼女らしいその言葉に、ふと微笑んだ。
「……そうか」
そして、おもむろに。
身体の陰に隠して、彼女に見せないようにしていたものを、香穂子の鼻先にずいっと突き付ける。
「そんな感心なお前さんに、俺からのささやかなプレゼントだ」
街灯に照らされた視界一面に広がった、華やかな色彩。
面食らって反射的に受け取った香穂子が、それが小さな花束であることを認識したのは、少し間を置いてからだった。
「……えっ、これ、私にですか?」
「……話の腰を折るなあ。お前さん以外の誰に、こんな柄じゃないものを渡せと?」
目尻を少し赤く染めた金澤が、指先で頬を掻きながら嘆く。
ふあああっと感激で可笑しな声を上げながら、香穂子が改めて両手の中の小さな花束を見る。
ピンクのガーベラとバラ。白のトルコキキョウ。色とりどりの小花とアクセントのグリーン。
「花の種類なんざ、詳しくはないからなあ。お前さんのイメージを伝えて、作ってもらったら、こんな感じだった」
大きなガーベラの花びらを、長い指先で丁寧に撫でて。
金澤は照れくさそうに呟いた。
暖かで優しいピンク。ふわふわの可愛い花束。
……金澤の目に映る自分が、本当にこんなふうであるのなら。
それは、香穂子にとっても幸せなことだった。
「でっかいフラワースタンドだとか、贈ってやれればいいんだがな。声楽家としちゃ駆け出しの俺じゃ、この辺りが身分相応か……ってな」
苦笑する金澤に、香穂子は小さく首を横に振って。
これがいいんです、と花束を抱き締めた。
「ありがとう……先生」
目を潤ませて、金澤を見上げた香穂子に、金澤はふと、怪訝に眉根を寄せて。
ふう、とこれ見よがしな大きな溜息を付いた。
「……先生?」
「香穂子、あのな。……花を喜んでくれたのは嬉しいが、どうせ感謝をしてくれるなら、前々から俺が頼んでることを、いい加減実行する気にはならないか?」
「は?……あ、……あの。……はい」
一瞬呆気に取られた香穂子が、金澤が意図する事の詳細を思い出して。
頬を染めながら、ぎゅ、と大事に花を抱えて。
上目遣いに、伺うように金澤を見つめる。
「……ありがとう。……紘人さん」
そして。
香穂子はまるで、花がふわりと開くように。
とても幸せそうに、笑った。
もう、自分は香穂子の教師ではないのだから。
一人の男として、俺の名前を呼んでくれないか。
それが、ずっと以前から。
金澤が香穂子に願っていたこと。
少し、くすぐったそうに微笑んで金澤は香穂子の柔らかな曲線を描く頬に、指先で触れる。
身を屈めて、触れたのとは反対の香穂子の頬に、柔らかなキスを落とした。
「こちらこそ。ありがとな……香穂子」
彼女らしい、優しく、穏やかで。
美しいヴァイオリンの音色に捧げたこの花と引き換えに、彼女が自分に与えてくれたものは。
馬鹿みたいにささやかな。
それでも、金澤が何よりも一番欲しかった。
小さな、小さな。
花びらのような幸せ。
あとがきという名の言い訳
基本的に、渡瀬は香穂子を「ヴァイオリニスト」の肩書きに押し込めたくないんですが、不思議とアンコール後の香穂子は大人組が相手の場合(理事とか)、後ろ楯もあることだし(笑)本格的な音楽の道に進むのかなあという気がしています。でも、極めるんじゃなく、楽しむ音楽をやって欲しいと思います。
甘い金日って書いた経験がないので、頑張ったつもりです(笑)。
金やんだったら、みみっちく(笑)ちっちゃい花束渡しそうな気がして。


