よくよく観察してみれば、目線はどこか虚ろで、頬には朱が射している。
……そういえば、ここ最近、校内のあちらこちらで志水並に無防備に、うたた寝している彼女を見かけないか。顔が広い彼女なだけに、周りの人間から、その都度たしなめられているようだが。
「……おい、日野?」
譜面台を元の位置に戻し、何故かそこに呆然と突っ立っている香穂子に、金澤は恐る恐る声をかけてみる。
ぽん、と肩を叩くと、香穂子はその力に押されるまま、ゆらりと揺れて。
糸が切れた人形みたいに、その場に崩れ落ちそうになる。
「おっと」
慌てて金澤が、片腕の中にその華奢な身体を抱きとめる。触れた僅かな部分から、伝わってくる尋常じゃない熱さ。
額に掌を当ててみれば、その熱さに反射的に掌を外したくなる。
「……言わんこっちゃない」
誰も聞くことのない呆れたような呟きを、金澤はぽつりと落とした。
遠い、どこかで。
優しい歌が聴こえる。
いつか、そんなに遠くはない昔に。
聴いたことがある、歌声。
重い瞼を、ゆるゆると持ち上げる。
視界に広がったのは、何故かゆらゆらと揺れる、見知らぬ天井。
ひやりとした額の感触に、訳が分からないまま手を伸ばすと、細長い矩形の、冷却シートが貼付けられている。
「……あれ?」
思わず呟いた声に、覇気がない。
ここは、どこだったろう。
何をしてたんだろう。
「ああ、起きるな起きるな」
咄嗟に身を起こそうとした香穂子を、制止する声がある。起き上がろうとしたけれど起き上がれず、視線だけをのろのろと声の方角に向けて、香穂子は緩慢に瞬きをする。
白衣を着たまま、机に向かう大きな背中。
香穂子が再びソファに横たわる微かな音を聴いて、金澤が肩越しに顔だけを香穂子の方に向ける。
「もうちょっと、待っててくれな。この書類書き終わったら、ちゃんと送ってってやるから」
「……せんせ、……わたし……」
「校医の先生、驚いてたぞ。よくこんな高熱でヴァイオリンの練習なんてしてましたねって。……頑張るのは大いに結構だが、無理はするなや。何ごとも、健康であってこそ、だろ」
保健室に連れて行って寝かせるべきかとも考えたが、下手に動かすよりもここで休ませた方がいいと校医から進言を受けた。どちらかといえばこちらの方が駐車場にも近いし、あと十分そこらもすれば、仕事にもメドがつく。そういう理由があって、香穂子が寝かされているのは音楽準備室のソファの上だった。
……そう、『ここ』なのだ、と。ようやく香穂子の頭が理解した。
「……先生」
「ん?何だ? もう少しだから大人しく待ってろよ」
……少しだけ、やる気を欠いたみたいな、力の抜けた。
穏やかで、優しくて。
低い、声。
この声の、違う色を知ったときから。
やる気のない、面倒くさがりな面じゃなくて。その裏にある、意外な面倒見の良さとか。
……遠い過去に傷を付けられた、いまだにその傷を抱える、繊細さとか。
そういう、普段見せるのと違う一面を知った時から、香穂子の想いは、生まれたような気がする。
「……先生」
繰り返し。
夢見心地のまま、金澤を呼ぶ香穂子の細い声に、金澤は呆れたように溜息をついた。
「だから、何だって? ……いいから、大人しくしてろよ、日野。無理して喋っても、キツいだけだろ?」
意識は朦朧としていて。
金澤の声は、ずっと遠くにあって。
夢の中にいるみたいだな、と香穂子は思う。
(夢なら……いいのかな)
言えるかな。
金澤に、言いたくて、言えなかったこと。
その全て。
「……ねえ、せんせ。ずっと、歌ってた?」
小さな、香穂子の声。
静かで狭い、準備室の中に、優しく響く。
机の上の書類に向かっていた金澤の目が、ゆっくりと見開かれる。
「……ずっと、ずっと。……聴いてたの。……嬉しい、な」
聴かせてくれない、金澤の歌声。
聴いたのは、たった一度きり。古びたテープの中に残された音源。
……あんなふうに、周りの全ての誰かに、聴かせるような歌でなくてもいいから。
ずっと、ずっと歌って欲しかった。
多分、それが。
いい加減でやる気のないように見える表の金澤に隠されている、本当の金澤の姿なのだと、香穂子は思ったから。
(先生を、ちゃんと知りたいよ)
この気持ちの中に隠されている本心が、何なのか。
何のために自分が、彼を知りたがるのか。
香穂子にも、まだ分からないけれど。
理由も理屈も説明出来ないまま。
どうしようもなく、自分は『それ』に。
惹かれてしまうのだから。
「……夢だろ」
書類をその場に置いて。
椅子から立ち上がった金澤が、香穂子が横たわるソファの、枕元に立って。
緩慢に瞬く香穂子を見下ろした。
ぼんやりと、焦点の合わない視線で懸命に金澤を捉えようとする香穂子に、微かに苦笑して。
身を屈めた金澤は、大きな掌で香穂子の双眸を遮る。
「全部、夢だよ。だから、もう寝ちまえ。……そんで、全部忘れちまえ」
彼女の意識がないのをいいことに。
誰にも聴かせない、与えない。
彼女への想いを載せた、微かな歌を紡いだこと。
それは、与えた彼女ですらも。
知らなくていい、そんな想いだから。
(でも、多分)
(きっと、忘れない)
そう答えた香穂子の言葉は。
優しい眠りにすとんと落ちる間際の言葉で。
金澤にちゃんと届いたかどうか、分からないけれど。
きっと、忘れないよ。
目が覚めて、意識は鮮明になって。
今、夢の淵で聴いた言葉も、触れられた優しさも全部。
夢の中の出来事にすり変わってしまうのかもしれないけれど。
それでも多分、忘れない。
意識の奥深い場所に届いた、微かな微かな、歌う声。
優しく、切ない旋律は。
心の深い場所に刻まれる。
あとがきという名の言い訳
意外に金やんの口調は難しいなと、書いてて思いました(笑)崩し過ぎてもなんか違うしな……。
微妙に「うたた寝」と繋げてますが、別々に読んで全く問題ありません。
近付こうと頑張る香穂子と、かわしたいんけど上手くかわせない金やんが書けてればいいな(笑)


