優しさの本当の意味を知る

王崎←日野

 ヴァイオリンを弾かない放課後なんて、随分久し振りのように思えた。
 特に計画もなく、友達と連れ立って、どうでもいい場所に寄り道して。
 それが当たり前だった日常はそんなに昔のことではないはずなのに、いつのまにかひどく遠い記憶になっていた。

 無意識のうちに香穂子は、制服のスカートのポケットを布地の上から片手で押さえる。
 その中、ハンカチに丁寧に包まれた、大切なもの。
 ……これから先、ヴァイオリンを弾いていく上で、香穂子が必要とするものは、逆の手が握りしめる、ヴァイオリンケースの中の重さなのだけれど。

 それでも、もう少し心の整理ができるまで。
 何よりも大切にしていたい、たった一本の金色の弦。



「……日野さん!」
 背後から声をかけられて、香穂子は反射的に後方を振り返る。走って自分を追いかけて来た人物に、目を丸くした。
「王崎先輩……」
 足を止めて、王崎が辿り着くのを待っていると、香穂子に辿り着いた王崎は、ふう、と大きく息をついて天を仰いだ。
「ああ、よかった、追い付いて」
「あの……すみません、何か用事でもありましたか……?」
 王崎の様子に、何か王崎と予定していたことでもあっただろうかと、不安になって尋ねると、意外なほどにあっさりと、王崎は首を横に振った。
「いや?何もないよ。……ただ、遠目に君の姿が見えたから、追いかけただけなんだ」
「え……?」
 驚く香穂子に頓着せず、王崎は自分の腕時計に視線を落とし、いつものように柔らかく笑んで香穂子を見る。
「ねえ、日野さん。これから少し時間、あるかな?」
 香穂子は口籠る。
 いつもなら、この時間はまだ学校でヴァイオリンの練習をしている時間だ。特に用事があって早く帰っているわけでもないから、帰宅しなければいけない時間には、まだ余裕があった。
 ……でも。
「……でも、私……」
 俯いて、香穂子はぐ、とヴァイオリンケースを握る手に力を込める。
 この存在は、今の香穂子にはまだ重い。
 それでも、この存在と新しい道を歩き始めなければならないことは、ちゃんと分かっているから。
 だからこそ今日一日は、ヴァイオリンのこともコンクールのことも、何も考えないで。
 気持ちをリセットしたいのに。

 言葉を濁した香穂子に、王崎が何を考えたのかは、分からない。
 だが、一瞬後に香穂子は弾かれたように顔を上げる。ヴァイオリンケースを持つ側の手首を、王崎の暖かな手が掴んだからだ。
「先輩……っ」
「今日はヴァイオリンをお休みして、気分転換をしてみない? 少し歩くけれど、いい場所があるんだ」
 珍しく強引に、王崎が香穂子の手を引いて歩き出す。
 いつの間にか、ヴァイオリンケースは王崎の手に奪われていて、ついていくしか手段がなくなっていた。
 「あの」「でも」と最初は抵抗していた香穂子も、王崎が何も言わずにどんどん先に香穂子を連れていってしまうから、もう、なるようになれ、という気持ちになる。

 王崎のことだから、香穂子の嫌がるような真似をするはずがない。
 何か、意味があるんだ。
 ……そう、思えたから。



 息を切らせて緩やかな上り坂を登りきると、街の風景を一望出来る展望所に辿り着いた。普段はそれなりに賑わう観光名所のはずだが、平日の夕方近くにもなると、意外に人の気配は疎らだった。
 はあ、と大きく息を付いて香穂子がベンチに腰を下ろすと、その隣に香穂子のヴァイオリンケースを置いた王崎が、小さく笑った。
 同じ距離を登って来たのに、王崎はあまり疲労した様子がない。男女の体力の差と言われてしまえばそれまでだが、ファータを追いかけてちょっとは体力を付けたつもりだったのに、どちらかといえば文系的なイメージの王崎にすら叶わない現実を知ると、少しだけ悔しい。
「何か、飲み物でも買って来るよ。少し待ってて」
 香穂子のそう言いおいて、王崎は自販機を探してその場を後にする。
 背を向ける直前に、置いたヴァイオリンケースを軽く撫でた。

 王崎の掌が離れたヴァイオリンケースを、見るともなく、香穂子は眺めている。
 ……周りには、他に人影がなく。
 街の喧噪は、ひどく遠い場所にある。
 緩やかな風と、優しい葉ずれの音だけが、耳に届いて。

 ……そして、ぱたりと手の甲に落ちた、涙の粒。


 香穂子をここまで支えてくれていた。
 香穂子をここまで連れて来てくれた。
 あの魔法のヴァイオリンは、今日、壊れてしまった。
 ……たった一本の、金色の弦を残して。

 新しい、普通のヴァイオリンをリリからもらったけれど。
 どうしていいのか、分からなくて。
 何事もなかったみたいに、新しいヴァイオリンと向き合うなんて、魔法のヴァイオリンにも、この新しいヴァイオリンにも、申し訳ない気がして。
 せめて、今日だけは。
 壊れてしまったヴァイオリンのことを、引きずっていたくて。
 立ち止まる暇なんてない。
 感傷に浸る余裕なんてない。
 それが分かっていても。どうしても。

(……先輩は、分かったのかな……)

 魔法のヴァイオリンのことも、それが壊れたことも。
 そのことで香穂子が抱く哀しみも、王崎には知りようがないことだと思うのだれど。
 それでも、彼が香穂子をここまで連れて来てくれた意味は。

 例えば、あのまま家に独りで帰っていたとしても。
 香穂子はおそらく、泣けなかった。
 気持ちを切り替えることも、引きずり続けることも、どちらも躊躇って。
 消化不良のまま、結局次の朝を迎えることになったのだろう。


 香穂子の日常に触れない、全く違う場所で。
 たった独り放り出されて。
 ……現実に対峙させられて。
 そして、分かる。
 自分の中に残っていた、哀しみ。


 こつ、と乾いた音と、微かな振動。
 涙目のまま、香穂子がそちらに視線を向けると、少し香穂子と距離を置いてベンチの端に座った王崎が、暖かなココアの缶をベンチの上に置いて。
 香穂子に視線を向けないように、ずっと前、遠くの景色を見つめながら、いつもと同じ声音の、穏やかな声で言った。

「……もし、聞いた方がいいのなら、ちゃんと聞くよ」

 その、王崎らしいような。
 いつもより、少しだけ複雑に曲がってしまったような、戸惑いを含んだ問いかけに、香穂子は、思わず笑って。

「……あと、三分落ち込ませて下さい。……自力で、浮上します」
 宣告して。
 その宣告通り、三分だけ、泣いた。



 遠目に、香穂子の後ろ姿を見た。
 いつも、跳ねるように、元気に走り回っている印象が強い子なのに、その時の背中だけが、やけに沈んで見えて。
 ……特に相談をされたわけではないから、放っておくのが正しいのかもしれない。
 下手に関わってしまったとしても、彼女が逆に傷付くだけなのかもしれない。
 それが分かっていても。
 追いかけずに、いられなかったのは。

 ……彼女の痛みなんて、本当は分からないんだ。
 おれと彼女は、同じ人間じゃないから。
 それでも、落ち込んだ時、淋しい時、哀しい時。
 独りではいたくない。
 だけど、誰にも触れられたくない。
 そんな矛盾した気持ちが生まれることを、知っているから。


 
 魔法のヴァイオリンのことは、誰にも打ち明けられなくて。
 香穂子のせいで失われた存在の、喪失の痛みは、香穂子が抱えるしかなかった。
 呑み込んで、消化して。
 「なかったもの」にするしかなかった。
 だけど、王崎が優しかったから。

 ……厳しく、叱咤激励するのでもなく。
 ……どろどろに甘やかすのでもなく。

 ただ、そこにいるだけ。
 何も聞かずに、側にいてくれるだけ。
 何かを抱えたまま、ひきずったまま。
 それを打ち明けることがなくても。
 ……誰かが泣く理由を詮索することなく、泣かせてくれる。
 それは、一つの強さだ。

 この人が、揺らがないから。
 深くまで誰かを掘り下げようとしなくても、無条件で他人を信じてくれる人だから。

 この人は、多分。
 偽善でなく、優しい。


「……大丈夫?」
 三分経って、「何か、私即席ラーメン並みですね」と恥ずかしそうに言った香穂子が、王崎にもらったココアを一口含む。
 苦笑混じりに涙目の香穂子を覗き込んだ王崎に、香穂子は笑って、大きく頷いた。
「もう、大丈夫」

 ……きっと、どんな人間にも平等に。
 同じ形で、同じ色で。
 同じ暖かさで与えられるからこそ、それは本物なのだろうけど。

(それでも、いいんだ)

 缶を握る両の掌と。
 心の奥に。
 同じ温度で与えられた、王崎の心が持つ温もり。


 それは、香穂子にだけ特別に与えられたものなんかじゃないけれど。
 それでもいい。

 その優しさの欠片を与えられたことで。
 喪失の痛みを、リセットするんじゃなく。
 想い出の一つとして、懸命に乗り越えて。

 香穂子はもう一度、新しい道を歩き始めることができるから。




あとがきという名の言い訳 

「はじまりの瞬間」という話に続いておりますが、それぞれ読んでも問題ありません。というか、分かりにくい話でスミマセン。
「優しい」って形容詞は結構難しくて、コルダの他のキャラだって、本当は充分に優しいんですよね(笑)
だけど、王崎が特に「優しい」の代名詞みたいなキャラだなあと思うのは、器?懐?が大きいというところかな……。理由とか関係なしで、その時必要な比重の優しさをくれる。それを計算しないで、自然にできる人だから、この人は優しいのかなと思うんですが。

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