でも、もし彼女のことを理由にして、自分が自分の意志を曲げてしまったその時は。
哀しむのは、きっと彼女の方だと思ったから。
空港のロビーで、王崎は携帯電話に届いたメールの文面を確認すると、微笑んでフリップを閉じる。メールの送り主からは、まるで実況中継のように端的なリアルタイムの状況が送られてくる。電車のダイヤが遅れているらしいが、元々空港でゆっくりするつもりで早めの待ち合わせにしていたので、少しくらいの遅刻は大きな問題にはならない。
荷物はもう預けてしまっているから、必要最小限の物を入れたショルダーバッグとヴァイオリンケース以外、王崎が手にするものはない。これから自分が赴く場所への距離と、その身軽さのギャップが少し可笑しかった。
携帯を握り締めたまま、王崎は浅くベンチに腰掛ける。すると、それと同時にマナーモードの携帯が振動を始めた。慌てて未読のメールを開いてみると、『今着きました!(><)』と、一言だけ綴られている。
王崎が立ち上がって、ここに辿り着くためのエスカレータに目をやるのと、小柄な少女がそのエスカレータを駆け上がり、最上段に足を踏み出すのが同時だった。
「香穂ちゃん!」
思わず、王崎は大声を上げた。
周りの視線が一斉に自分に注がれて、一瞬恥ずかしくなったが、少し遠い場所にいる香穂子が「王崎せんぱーい!」と王崎に負けない大声で笑って手を振ってくれたから。
その恥ずかしさも、途端にどうでもよくなった。
「あー、よかった。間に合って。こんな日に限って電車が遅れるなんて、ひどいですよね」
じんわり首筋に滲んだ汗をハンカチで拭いながら、香穂子がふう、と溜息をついた。
春先とは言え、今日は朝からいい天気で、暖かかった。春物のコートに身を包んだ香穂子は、見るからに暑そうだ。
「汗が引くまで、コート脱いでみたらどうかな。おれ、持っててあげるよ」
「え!」
王崎の提案に、香穂子が驚いたように声を上げた。たかだかコートを持つと申告したくらいで、そんな反応をされると思っていなかった王崎が、目を丸くして隣の香穂子を見下ろす。
あ、えっと、と、しばらく躊躇っていた香穂子だが、緩く暖房の効いた空港内の温度にやがて耐えきれなくなったのか、ごそごそとコートを脱ぎ出した。
そして、その薄いコートの下から現れた香穂子の姿に、王崎は、また驚く。
「……香穂ちゃん、それ……」
香穂子の着ていたのは、白い細やかな花模様があしらってある淡い水色のワンピース。
少し前、王崎と二人で歩いていた時に、店のウィンドウ越しに香穂子が見つめていたものだった。
ガラスに両手の指先で触れて、「可愛い」を連呼しながらマネキンが着ているワンピースに見とれる香穂子に、
「似合うと思うよ、買ってみたら?」
と王崎は告げた。
なんだったら、プレゼントしようかと告げると、香穂子はぶんぶん、と首を大きく横に振った。
「だ、駄目です!……そりゃ、可愛いと思うけど……欲しいなって思うけど……でも、私、ああいう女の子らしい服、似合わないんです!」
そういえば、王崎が知る限り、私服の香穂子はどちらかと言えばカジュアルでボーイッシュな格好をしていたっけ。コンクールやコンサートの時にはきちんとドレス姿だったが、あまりふわっとしたスカート姿の印象は持っていない。
「そうかな……? 香穂ちゃんのことは、多分香穂ちゃんが一番知っているんだろうから、おれはあまり言えないけど」
でも、と王崎は言葉を切る。
「……似合うと思うよ」
王崎の心の中で、香穂子という存在はいつだって。
可愛らしく、愛おしいものだから。
「実は、先輩がヨーロッパに行くって教えてくれた時に、こっそり買いに行ったんです」
丈の短いワンピースの裾を指先で摘んで、はにかんだように香穂子が白状する。
今まで以上に、逢える時間は減るだろう、と。
王崎は、そう正直に香穂子に伝えてくれた。
元々、バイトやボランティアや、そもそもの大学生活で忙しい王崎とは、香穂子はなかなかゆっくりと逢うことが出来なかった。
そして去年の終わり、王崎が欧州で開かれたコンクールで優勝してから、王崎を取り巻く環境は更に一変することになった。
まだ、何をするのか、何ができるのか、自分にも全く見えてはいない。
それでも将来、自分はたくさんの人にヴァイオリンの、そして音楽の素晴らしさを伝える仕事がしたいのだと、王崎は言う。
国も、性別も、年齢も。
全ての境界線に、阻まれることなく、音楽の素晴らしさを伝える仕事が。
それは、とても王崎らしい夢で。
香穂子が知る、香穂子が好きだと想う王崎という人間の姿と、少しの差異もない姿。
だから、そのために欧州へ行く機会が増え、比例して香穂子と逢う時間も減っていくと王崎に申し訳なさそうに告げられた時も、香穂子はあっさりとその言葉を受け入れた。
淋しくないとは言わない。
哀しまないとは言わない。
でも、それでも。
『そう』する王崎が、香穂子が好きになった王崎の姿、そのものだったから。
香穂子は笑って。
行ってらっしゃいと告げることが出来た。
今度の王崎の渡欧は約3ヶ月。
その間、香穂子は王崎と逢えない。
「だから、ちょっとでも『良い』私を、先輩に覚えていて欲しかったんです」
背伸びだって思ったけれど。
似合わないのかもしれないって、怖かったけれど。
せっかく、王崎が。
『可愛いと思う』と。
そんなふうに言ってくれたのだから。
香穂子の言葉を黙って聞いていた王崎は、ふと自分の手の中にずっと握り締めていたものの存在を思い出す。
言うだけ言った後、恥ずかしそうに頬を染めて俯いてしまった香穂子の顔を覗き込んで。
ちらりと王崎の方を見た香穂子に、ふわりと笑った。
「ね、香穂ちゃん。今の君を撮らせてくれる?」
王崎は香穂子の目の前で、手に持った携帯を掲げてみせた。
「……向こうに行っても、一番可愛い君の姿を、いつでも、ちゃんと見られるように」
……こんなふうに。
自分が生まれ育った場所とは違う国で、自分に出来うることを探そうと思い付いたきっかけは。
おそらく日野香穂子という存在が、必要不可欠なものだったのだろうと、王崎は思う。
透明な水面が、空の色を映して、優しい蒼を彩るように。
香穂子の目に映る自分を見ることで、王崎は自分の夢の正しさを信じられる。
(そんなふうに、君も信じてくれるかな?)
盲目に王崎を信じていてくれる香穂子を、王崎もまた、変わらずに信じることで。
どこにいても。何をしていても。
王崎が彼女を想う気持ちが、未来永劫変わらないであろうことを。
(信じていて、くれるといいな)
今はまだ、開くことを許されない、あのワンピース姿の香穂子の写真を収めた携帯電話をそっと胸に抱いて。
晴れ渡る春先の空を縫って飛行する機内から、分厚い窓越しに見た空は。
彼女を一番可愛らしく彩った、あの水色のスカートと同じ。
優しく、淡く。
眩しい色をしていた。
あとがきという名の言い訳
一応元ネタになった曲があったり。
ネタの曲もやっぱり水色のスカートにまつわるものなので、すとんとネタが降臨しました。しかし、お題が水色じゃない別の色だったら、果たしてネタを思い付いたんだろうか(笑)


