そう言えば、以前後輩の志水が「カエルにチェロを聴かせてみようかと思って」と呟きつつ、この池の前でチェロを弾いていたことがなかったっけ?
(ああ、でも。カエルの卵はちょっと見たくないかも……)
そんなことを思いつつ、楽譜の束とヴァイオリンをそれぞれの腕に抱えた香穂子は、通りがかった森の広場のひょうたん池をひょいと覗き込む。見慣れた場所なのだけれど、まともに覗いたことはなかったなあと、ふと思い付いて。
魚、いるのかな?と軽い好奇心で水面を眺めていると、背後から落ち着いた声音が響いて来る。
「香穂ちゃん? どうかしたの?」
名を呼ばれて、何気なく肩越しに振り返って見ると、穏やかな笑顔を浮かべた王崎がそこに立っていた。
「楽譜でも落としたのかと思ったんだよ。深刻な顔して、池の中を覗いてたから」
池の側にあるベンチの上に腰を下ろして、安堵したような溜息を付いて、王崎がそう言った。魚いないかな、と思ったのがそんなに深刻そうに見えたんだろうかと、香穂子は少々恥ずかしく思いながら、片手で自分の頬を撫でた。
「でも、ここに楽譜落とすって相当間抜けじゃないですか?」
そういうことをやりそうな人間だと王崎に思われてたなら、それもまた恥ずかしいなと思いながら香穂子が言うと、王崎が意外そうに片眉を上げた。
「え?そんなことはないよ。結構、いるよ。そういう人」
「……そうなんですか?」
「うん。……ほら、この学校って海が割と近いせいか、風が強いでしょ。でもこの森の広場は、遮ったり引っ掛かったりするものが案外少ないんだ。だから楽譜を飛ばされちゃうと、運が悪いとここまで飛ばされて、水面に落ちちゃうってわけ」
「……なるほど」
冗談なのか本当なのか、よく分からないけれど。
他の人ならともかく、王崎の言うことだからと、香穂子は素直に納得した。
そうして、少し考えを巡らせてみて。
香穂子は何を思ったのか、突然「はい!」と片手を挙げてみた。一瞬呆気に取られた王崎が、苦笑しながらも、「何? 香穂ちゃん」と促してくれた。
「ここって、人工池ですよね?」
「……俺も、この学院の歴史に詳しいわけじゃないから、よくは知らないけど、でも、そうじゃないかな?」
「楽譜とか、他の学校に比べて持ってる人多いのに、何で池なんて作ったんでしょう? そんなふうに、楽譜飛ばされちゃったりする人が多いなら、尚更」
王崎はふと眉根を寄せ、顎の辺りに指先を触れさせながら、真剣に考え込んでいる香穂子の横顔を、まじまじと眺める。
そして、柔らかく笑んだ。
(……だから、この子は。……ファータに愛されるのかもしれない)
どんな些細なことでも、真正面から対峙して。
素直に受け止めて、呑み込む。曖昧に流したりせずに。
だから、人外の、目に見えぬ者達に愛される。
本来ならば、常識から切り離されて、捨てられるはずの不可思議な者達ですら。
彼女は、素直に受け入れるから。
……だから、彼女の音楽には。
妖精の祝福が添えられる。
確かに、技術的にはまだ未熟で、学ばなければならない部分がたくさんある演奏だけれど。
彼女の持つ音色の魅力は、彼女の素直さ、そのものだ。
優しくて、穏やかで。
そして、とても心地よい。
例えば……そう、この目の前に広がる、凪いだ水面のように。
「……確かに、そういうマイナスの面から考えれば、必要性が分からなくなるのかもしれないけれど。……おれは、好きだよ。この場所」
香穂子がふと視線を上げて、王崎を見る。
その視線を真正面から受け止めて。王崎は微笑んだ。
「水際って、何だか心が落ち着くじゃない?」
ぱちり、と。
香穂子が一つ、大きな瞬きをする。
怪訝そうに見つめる香穂子に、王崎が一つ頷くと、香穂子は困惑したような表情のまま、王崎から視線を反らして、空を仰ぐ。
晴れ渡った空を見つめて。
そして、そっと目を閉じる。
風の音。
それに揺れる葉ずれの音。
凪いだ水面の上を、優しい風が撫でていって。
そして……静寂。
ああ、と。
香穂子が溜息を付くように、柔らかな声を零した。
「何か、分かります。……上手く、言葉で説明出来ないけれど」
そんなふうに、言葉で上手く説明ができないくらいの、ささやかな安らぎのために。
この場所には、この池が必要だったのかもしれないと、香穂子は思う。
「王崎先輩?」
「ん?」
もう一度、王崎の横顔を見上げて香穂子が呼び掛けると、その頬に先程の微笑みを残したまま、王崎が香穂子を見下ろした。
そんな王崎に、香穂子は。
「……そういう、安らげる存在って。……なんだか、王崎先輩みたいです」
屈託なく笑って、そう告げた。
今ではもう夢のような。
二度とこの目にすることは出来ない、不可思議な存在。
その存在に、愛される少女。
多分、自ら望んだわけではないのに。
巻き込まれて、振り回されて。
それでも、それを幸福だと思える。
……喜びに、変えることのできる少女。
不可思議な存在がいることを『知る』自分が。
見えることの出来たあの頃から、それなりの年月と経験を重ねた自分が。
彼女と出逢い、知り合ったことに意味というものがあるならば。
「本当に『そう』ならいいんだけどね」
向かい風を受ける彼女が。
逆境に立ち尽くす彼女が。
せめて、ほんの少し、安らげる場所として。
自分の存在を、望んでくれるなら。
目の前に広がる、静かな水面と同じように。
波立つ彼女の心の水面を凪ぐ。
例えば、そんな。
優しい風になれたなら。
あとがきという名の言い訳
ひょうたん池、どうでもいいじゃんってツッコミはごもっとも!(笑)
水縁って妙に落ち着きませんか?そういう効果があるものなんだとか勝手に思います。
ちなみに、渡瀬もこういう話を書いたからには、水があれば「魚いねーかな」と覗き込み、それが渓流だったり海だったりすると足を突っ込んでみたくなるタイプです。
余談ですが、大学在学中、友人ら計6人で海まで出かけまして、波打ち際に腰を下ろし何時間もただひたすら海を眺めていたという経験があります。……私ら、なにやってたんだろ……(遠い目)


