はじまりの瞬間

王崎←日野

「……壊れたんです。私のヴァイオリン」

 まだ、少し涙の残る目で。
 ぽつりと教えてくれた声に、王崎は何を言ってやればいいのか、分からなくなる。
 慰めと呼べる言葉は、ただ彼女を痛みつけるだけのような気がして、ただ「……そう」とだけ呟いた。

「私のせいです。私が、無茶な弾き方をしてたから」
 月森や王崎、ヴァイオリンを大切にしている周りの人間を見習って、香穂子もあのヴァイオリンを大事に大事にしてきたつもりだった。
 だけど、知らなかったのだ。大切に思い、弾けば弾くほどに、あのヴァイオリンが弱っていってしまうことに。
 技術を持たないまっさらの香穂子に、足りない技術を与えるため、あのヴァイオリンにはリリの魔法がかかっていた。無から有は生まれない。香穂子にコンクールに参加するに見合うための技術を提供する代わり、あのヴァイオリンは生命力を削っていた。
 香穂子のせいだ。何も知らされなかったとはいえ。
 ヴァイオリンを弾くことが楽しくて。コンクールに参加出来る現実が、いつの間にかとても幸せで。
 調子に乗っていた。少し想像力を巡らせれば、分かったはずのことだった。
 弾けば弾くほど、徐々にヴァイオリンが弱っていくことは、一番近くにいた香穂子でなければ気づけなかったはずなのだから。
「……おれには、そうは見えなかったよ」
 静かに、王崎が告げる。
 学校のどこかで、楽しそうにヴァイオリンを弾く香穂子を見た。
 言葉にしたことはないけれど、香穂子はいつだって、幸せそうで。
 あんなふうに、楽しそうに弾かれれば、ヴァイオリンも幸せなのではないかと思えた。
「でも、ヴァイオリンを弾くのが私じゃなかったら。もっと、上手な人だったら。あんなふうに壊れたりしなかったはずなんです……!」
 香穂子が、素人だったから。
 ヴァイオリンに触れたこともない人間だったから。
 あのヴァイオリンは、その命を縮めなければならなかった。
 それほどまでに力を使わせなければ、香穂子にはヴァイオリンが弾けなかったのだ。
「日野さんがそこまで言う理由は、おれには分からない。……だけど、君はもう少し、自信を持っていいと思うんだ」
 香穂子が抱えている秘密。
 ……普通科からコンクールに参加した彼女。リリという不可思議な存在を知っている王崎には、確かに『それ』があるのかもしれないという不思議な確信がある。
 でも、それは大した問題じゃない。
 彼女が今回の学内音楽コンクールにもたらした功績を思えば、多分その秘密は、その功績のために香穂子に与えられた。
 音楽が、敷き居の高いものではないこと。
 誰にでも触れられる、楽しめるものであること。
 それはおそらく、彼女という異分子がこのコンクールに参加していなければ、音楽科以外の生徒達には伝わらなかったはずの真実で。

「君が、壊れるまでヴァイオリンを弾き続けたこと。それには確かに、意味があったんだよ」

 そうまでしなければ。
 彼女がヴァイオリンを弾けなかったと、そう言うのなら。
 ひとつのヴァイオリンの存在、全てを使い切ってでも、彼女がヴァイオリンを弾かなければいけなかった意味は、確かにあった。

「ヴァイオリンが壊れて、そして今君が何かをしなければならないことがあるとしたら。……それはまた『始める』ことなんじゃないかな」
 王崎が微笑んで告げた言葉に、香穂子が微かに目を見開く。
 反射的に王崎を振り仰いだ香穂子に、ただ、王崎は頷いてみせた。
「……確かに、何かが失われるのは悲しいことだよ。そうでなくて済むのなら、その方がずっといい。……でも、君のヴァイオリンが壊れたことは。……壊れるまで、君があのヴァイオリンを弾き続けたことは、絶対に無駄なんかじゃないよ」

 形あるものは、いつか必ず失われる。
 この世に永遠はなくて。
 永遠に続くように思えるものでも、必ずいつか、終焉が来る。

 ただ、続いていくものもある。
 ……遠い過去に誰かが創り上げた旋律が、今もまだ、別の誰かの手によって奏でられているように。
 誰かの手から手へ、託されていくものがある。

 歌うものとして、あのヴァイオリンがこの世に生まれて来た以上。
 大事に守られ、何の役目も果たさぬままであるよりも。
 愛でられて、永久に残され続けるよりも。
 存在の全てをかけて、生み出す音を託せる誰かをこの世に誕生させたことに。
 あのヴァイオリンが存在した意味がある。

 大切なのは、その『託された存在』である香穂子が、立ち止まらないこと。
 喪失の痛みに耐え切れず、ヴァイオリンを弾くことをやめてしまわないことだ。

「今は、泣いてもいいよ。立ち止まって、後悔してもいい。だけどそれでも君がヴァイオリンを弾き続けること。……壊れたヴァイオリンが望むことだって、きっとそうなんじゃないかな」


 ……本当は、分かっていた。
 後悔することに。
 失われたものを振り返ることに。
 救いなんて、ないんだって。
 こうすればよかった、ああすればよかったと後から思うことは簡単だけれど。
 そこで足踏みすることは、言い訳でしかないんだって。


 新しいことを始めなければ。
 あのヴァイオリンが香穂子に与えてくれたもの全てを糧にして、動き出さなければ。
 全部が、本当に無駄になってしまうんだ。


「……明日、から」
 ぽつりと、香穂子が呟く。
 俯いて、足下を見る癖の強い髪に隠された横顔を、王崎は静かに見守った。
「明日から……この子と一緒に、また頑張ります」
 俯いたまま、香穂子が探るように傍らのヴァイオリンケースに手を伸ばし、そっと撫でた。
「……うん」
 頷いて。
 一瞬、躊躇って。それでも、思い切って。
 王崎は、片手を伸ばす。ぽんぽん、と軽く香穂子の頭を叩いてやる。

「頑張って。……おれも、応援してるから」


 頑張れって。
 そんなふうに言うことしか、出来ないけれど。
 今まで、どんな逆境でも挫けずに乗り越えてきた彼女を知っているから。
 大丈夫だと、信じていられるんだ。


 今まで縋って来た支柱が崩れて、これから先、香穂子は自分自身の力だけで、目の前に伸びている道を歩いていく。
 だけど、あのヴァイオリンを失って、香穂子自身の中から失われるものを知ることで。
 香穂子は、本当の自分を知る。
 まだ、駄目なんだって。
 力が足りないんだって思い知って。
 そうして、確実に次のステップを登っていく。

 挫けそうになっても、負けそうになっても。
 そのたびに、新しく始めるその瞬間を自分の力で、踏み越えていく。



 だって、香穂子は独りじゃない。
 見返りもないのに、ただ、心の底から純粋に励ましてくれて。

 ずっと、こんなちっぽけな存在を見守ってくれる人を。
 もう、ちゃんと。

 ……知って、いるから。




あとがきという名の言い訳 

ちょっと書いてみたかった話なので、私的には満足です。
「優しさの本当の意味を知る」という創作の続きの話になりますが、別個として読んでも特に問題はないです。
読み返してみると、自分の思考(嗜好にあらず)がもろに出てる作品になってしまったような気がします(笑)

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