偶然、仕事帰りの吉羅と学校帰りの香穂子の時間帯が重なった時。
彼女を自宅へ送り届けるために乗せた、アスファルトを静かに滑る車の助手席で、香穂子は初めてそんな誘いを口にした。
改めて誘われて、ふと吉羅は気付く。
そういえば、いつもどこかで見かけた彼女を食事やドライブに誘うばかりで、彼女の方から何かに誘うということは、今まで一度もなかったような気がする。
彼女は特に、吉羅の誘いを断ったり、嫌がったりする素振りは見せたことはないけれど、もしかしたら、いつも自分に合わせて背伸びをしていて、本当はもっと、彼女が願うことがあったのかもしれない。
「……次の土日が連休になるから、土曜日に。……それで構わないかね?」
少しだけ申し訳なく思う素振りは、見せないようにして。
静かに吉羅が尋ねると、香穂子はほんのりと頬を赤く染め、嬉しそうに笑って頷いた。
本当は電車の方がいいと香穂子は言ったのだが、さすがにそれは吉羅の方が断った。
「……一応、周りの目というものを考えたまえ。理事長の私と、学生の君が連れ立って電車で移動というのは、あまりに体裁が悪いだろう」
「あ、そうか。そういうの、ちゃんと考えなきゃ駄目ですよね」
素直に香穂子は納得して、それから、「じゃあその代わり、ちゃんとラフな格好して来て下さいね、いつものスーツは駄目ですよ」と吉羅に釘を刺した。
だから約束の土曜日、吉羅は少しだけラフなシャツとジャケット姿で香穂子の家の門の前に車を停めた。
大きな荷物を抱えて、いつものように助手席に乗り込もうとした香穂子が、そんな吉羅に目を止めて、それからふと、嬉しそうに笑う。
何故かその視線がいたたまれなくて、吉羅は窓枠に頬杖を付いて、香穂子から視線を外し、正面の景色を見た。
「……それで、どこに行きたいんだね?」
助手席に落ち着いて、膝の上に持ち込んだ荷物を抱える香穂子の気配を感じながら、正面を見据えたまま吉羅が尋ねると、斜めに吉羅の横顔を仰いだ香穂子は、はっきりとした口調で答えた。
「海!」
春先の海は、さすがにシーズン前ということもあって、人影はなかった。
こんなふうに太陽の下で過ごすこと自体が、吉羅にとっては随分と久し振りのことで、あまりの陽射しの眩しさに、目を細めて片手を翳して、吉羅は光を遮った。
「……それで、こんな時期外れの場所に誘って、いったい何をしようというんだね」
香穂子と吉羅は堤防のコンクリの上に腰を下ろしている。脇に持って来た荷物を置いた香穂子は、吉羅の方を振り返って、にっこりと笑う。
「何もしません」
「……は?」
きっぱりとした香穂子の言動に、吉羅が怪訝な表情で尋ね返す。
そんな吉羅に香穂子は苦笑するようにして、小さく首を傾げた。
「今日は一日、ここでぼんやりするんです。……だって、吉羅さん、私を誘ってくれる時だって、何だかすっごくお洒落ないいお店ばかり連れてってくれるし、車で送り迎えしてくれるし。……いつもお休みなのに、私に気を使ってもらって、申し訳ないと思ってたんです」
香穂子の言葉に、吉羅はゆっくりと目を見開く。
……初めて、吉羅の車に乗ることを躊躇った数日前の彼女の意図を理解した。
「こういうの、ホントは吉羅さんの趣味じゃないんだろうなって思ったんですけど、ちゃんと『休息』を取ってもらいたかったから。今日一日は、諦めて私の我侭に付き合って下さいね!」
レストランとか寄らなくていいように、お弁当持参です、と。
香穂子は誇らしげな笑顔で、自分が抱えて来た大荷物を、片手でぱしんと叩いてみせた。
確かに、『何もない休日』というのは、吉羅の生活の中には存在しない。
休暇と名のつくものでも、よくよく突き詰めて考えてみれば、何かしらが仕事へと関わっていて、ある意味ビジネスライクに徹していたものだったのかもしれない。
もちろん、楽しんでいたことそのものは間違いではなくても。
何も考えることなく、休めていたわけではないのだから。
……おそらくは。
自分には必要がなかった本当の意味での『休み方』を。
吉羅は知らなかったから。
「……休息、か」
ぽつりと呟いて、吉羅はその表情を緩め、微かな笑みを浮かべる。
その珍しい表情に香穂子が一瞬見とれていると、その隙に、吉羅は躊躇することなく、ころんとコンクリートの上に横たわる。
頭はしっかり、香穂子の揃えた両膝に収まる位置。「ひええええっ!」と香穂子が悲鳴のような大声を上げた。
「き、き、き、吉羅さん!?」
真っ赤になった香穂子が、声を上擦らせて名前を呼び、膝の上の吉羅の顔を覗き込む。
彼女の存在に陽光を遮られ、暗くなる視界に、ふと笑って。
吉羅はゆっくりと目を閉じる。
「……休ませてくれるんだろう?」
「はい。いえ。……いや、そうなんですけど!この体勢っていうのは予想外……」
「君から言い出したんだ。四の五の言わずに、静かに寝かせたまえ」
「うううう……」
悔しげに香穂子が唸る声がする。
そんな反応もまた楽しくて。
……柄ではないけれど、幸せだと思えて。
いつも、彼女を自分の世界に巻き込むだけだった。
彼女が知っている世界を、積極的に知ろうとはしていなかった。
だが、本当は。
半々でいいのだと理解した。
誘い誘われ。
そういう関係で、自分達は構わないのだと。
何故ならば。
吉羅が知らなかった、こんな休日の過ごし方。
彼女が教えてくれた、安らぎは。
意外なほど、悪くはないと。
そんなふうに、思えるのだから。
あとがきという名の言い訳
シリアスでも甘々でも、この人の喋り方を忠実に書くとどことなくギャグテイストになるのは何故?(笑)ホントにこれを理事と称していいんでしょうか。理事ファンの人に怒られないか、非常に心配です。
理事は健康的な休暇を取らなそうな気がしたんで、こんな話(笑・食べるか飲むかの休日になりそうだ……)。香穂ちゃんと一緒なら、こういうほのぼのも仕方なさそうに付き合ってくれるんじゃないでしょうか?


