願いを聞かせて

吉羅←日野

 何もかもを突き放すような、あの冷めた物言いが。
 腹立たしいというより、むしろ哀しいと……そう思った。

 その全ては、あの日あの時、彼が抱えていたどこまでも真っ白な百合の花束の。
 贈り主に起因することを、知ってしまったから。




「……順調に進んでいるようね」
「結構。……これからも、その調子で励みたまえ」

 月曜日の理事長室。
 オーケストラに向けた香穂子の一週間の頑張りの成果を、都築と吉羅は落ち着いた声で労った。
「では理事長。私は午後の講議がありますので、大学へ戻ります」
「御苦労だったね、都築くん」
 吉羅の言葉に軽く一礼をした都築は、すれ違いざま、香穂子の肩を優しく叩いていく。励ますような柔らかな眼差しに、香穂子は微笑して頷いた。
 最初は、堂々としていて怖い人だと威圧感を感じていた都築の印象が、ここ最近自分の中で変わって来ているのを感じる。
 王崎や金澤が言うように、彼女はただ、音楽に真剣に取り組んでいる人だ。真剣ならば真剣なだけ、発する言葉は厳しいものになる。その真剣さにこそ圧倒されていたのだと、彼女に出会った頃の自分を顧みて香穂子は思う。
 同じ真剣さで音楽に取り組んでいる人間であれば、彼女はそういう人物を邪見にしたりはしない。
 妥協を許す人ではないことは分かっているが、その誠実さが理解出来た点で、香穂子は自分と共にオケを引っ張っていくことになるだろうこの女性を、心の底から信頼していた。
「……日野くん」
 ドアが閉じるまで都築の後ろ姿を見送っていた香穂子に、背後から吉羅の声が響く。
 慌てて振り返ると、デスクの書類に視線を落とす吉羅が、ぎ、と鈍く椅子を鳴らした。
「君も、もうじき午後の授業が始まる時間だろう。教室に戻りたまえ」

 事務的な吉羅の物言いに、香穂子はわずかに顔を歪め、唇を噛む。

 話題性を生む、学院のPRに最適な学生。
 吉羅が香穂子という存在を、そんなふうにしか認識していないのは、充分に分かっている。
 それでも、そんな吉羅に香穂子が心を向けずにいられないのは。

 今、音楽を道具のようにしか扱えないこの人が、音楽を……ヴァイオリンを愛していた時代があることを知っているから。
 そして、その愛情の喪失が、彼にとってかけがえのない存在を奪われたことに、原因の一端があることを。
 香穂子はもう……知ってしまったから。
 
「……日野くん?」
 いつまで経っても退席する様子を見せない香穂子に、吉羅が怪訝な表情で視線を上げた。
 そんな吉羅に正面から向き直って、香穂子は床を踏む自分の両足に、しっかりと力を込める。
 ……彼が、自分に対しての言葉にオブラートをかけてなんてくれないと知っているから、それなりの心構えが必要だった。
「日野く」
「理事長」
 三たび吉羅が香穂子の名前を呼ぶ前に、香穂子は強い声でそれを遮った。
 真直ぐな視線で自分を見る香穂子の姿に、いつもと少し違うものを感じつつ、吉羅は小さな溜息を付いた。
「……何か用事が?」
「はい」
 はっきりと頷いて、香穂子は一つ息を付く。
 ……今日は、吉羅に告げようと思っていた言葉。それを、心の中で繰り返していた。
「オーケストラの成功は、理事長の願い……ですか?」
 香穂子の突然の言葉に、吉羅は意外そうな顔で一つ瞬きをした。考え込むように顎に指先で触れ、高い場所を見据える。
「願いといえば、願いだろうね。……正確には、君と都築くんがオーケストラを成功させることで、この学院が音楽に取り組む姿勢、その修得性を各方面に示すことでもたらされるものを、私は願っているのだが」
 それが?と冷めた口調で理事が問い返すと、香穂子は一旦視線を伏せ、ふう、と溜息を吐いた。
 ぐ、と身体の線に沿って下ろした両手を固く拳に握り締めて。
「だったら、オーケストラが成功したら。今度は私の願いを叶えてくれませんか?」
「……ほう?」
 思いがけない香穂子の申し出に、一瞬目を丸くした吉羅の口元が、次の瞬間に、面白そうに笑みを形作る。
 強引なオーケストラの要請やアンサンブルコンサートの難題を押し付けても、最初は困惑しながらも、特に不平不満を言うこともなく、全てを呑んで来たこの少女が『願う』ことに、興味を引かれた。
「……内容を聞いてみなければ、叶えられるかどうかの判別は出来ない」
 それでも、それが今後の彼女の音楽へ捧げる人生への援助を必要とするものであれば、即答で受け入れてやるつもりだった。
 本当はもっと、穏やかで平凡な道が待っていたはずの、日野香穂子という少女の人生。
 ファータという人外の存在に魅入られたことで、それは一変してしまった。
 普通の、一般の少女が歩むべき平坦な道を、妖精の祝福があるとはいえ、紆余曲折の茨道へと引きずり込んだことは、そんなファータの恩恵を受け続け、その存在を支持してきた吉羅の一族も、責任の一端を担っている。
 ……吉羅にとっては不本意極まりないが。
「音楽科への編入でも、付属大学への推薦でも、犯罪にならない範囲で、私の力の及ぶことならば、叶えよう。……聞かせてくれたまえ」
 促した吉羅に、香穂子は小さく首を横に振った。
 それから、真直ぐに。
 ……凪いだ水面のように、澄んだ目で。
 まっすぐに、吉羅を見た。

「私が、オーケストラを成功させたら。……理事長は、『幸せ』になってください」

 それは、吉羅が頭の中で予想した幾つもの事柄の端ですら掠めていかないほど。
 意外すぎるほどに意外な、香穂子の願いだった。

「音楽が……ヴァイオリンが。誰かにとって無駄なものなんかじゃないって。哀しい、辛いものなんじゃなくて、その逆なんだって。……認めて、そして。貴方は……本当の意味で、幸せになってください。お願いします」
 ぺこり、と丁寧に一礼して。
 それから香穂子は、呆気に取られる吉羅の返事を待たずに、足早に理事長室を後にした。



「……君の目に映る私は、幸せではない、……か」
 書類に目を通しながらも、内容は全く頭に入ってこない。
 何度も同じ行を目線でなぞりながら、吉羅は指先で紙面を弾き、苦く笑った。

 癪に触るが、あの少女の言うことは、あながち間違いではないのだろう。

(おかしな子だ……)
 しみじみと思いながら、彼女はやはり、あのファータ共に愛された少女なのだと、変なところで感心する。

 彼女と同じくらいの年齢だった頃、ヴァイオリンや音楽に抱いていた愛情を信じられない今は。
 確かにあの頃の自分に比べれば、幸福だとは言い難い。

「……『幸せ』……か」
 机の上に積み上げた書類の上を、かつかつと、指先で数度叩き。
 低い声で吉羅は呟いた。

 確かに、姉の命を奪った音楽やヴァイオリンを、今の自分は愛せない。
 それが不幸だというのなら、もう一度音楽を愛する気持ちを持てた時、自分は幸せを手に入れられるのだろうか。
 ……分からない。
 だが。

(では、見せてもらおうか)

 オーケストラ経験のない、ヴァイオリン歴も浅い普通科の生徒を、コンミスとして舞台に立たせること。
 学院のための話題性としては申し分なく、ファータの後押しもあり、吉羅自身も日野香穂子という生徒が持つ可能性を信じたが故の荒療治だとは言え、それがひどく実現困難なことだということに変わりはない。
 それでも、持ち前の一途さと純粋さで、そんな奇跡を彼女が起こすのであれば。
 その奇跡を、吉羅の目の前にまざまざと見せつけるのであれば。
 もう一度、あの頃吉羅が音楽に抱いていた信頼と愛情を、取り戻せるのかもしれない。

 そして、彼女がそんな吉羅の途方もない願いを、叶えるのならば。

(私も、応えるしかあるまい?)


 彼女が、願う通り。
 傷付いたり、憎んだり。そんな哀しい、辛い気持ちを振り払って。


 本当の意味で正しく、『幸せ』であることを。




あとがきという名の言い訳 

渡瀬が理事に何か願うとしたら、あの回りくどい諸々をどうにかして欲しいです!(大笑)
どうしても渡瀬の中でこの人は、お姉さんが亡くなったいろいろに対して拗ねて、ヒネてるヘタレ(所詮ヘタレ)なので、シリアスな話になると、こういう感じのものになりますね。

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