ふと脳裏を過る、古い唄の一節。
花の咲く盛りは短いのに。
……先人が唄として残し、語り継いで行くほどに、それは真実なのに。
何故姉は、そんなささやかなこと一つすら出来ずに、死に行かねばならなかったのだろう。
「……日野くん」
静かな名前の形の音を落とすと、壁に寄り掛かって腰を下ろし、楽譜を読んでいた日野香穂子が、頭上を振り仰ぐ。
無表情で自分を見下ろしている吉羅に、屈託なく笑いかけた。
「あ、理事長。こんにちは」
「……こんにちは」
礼節の基本は挨拶から、ということで、生真面目に吉羅が答えた。
「……それで君は、ここで何を?」
「え?……譜読みですけど!」
見れば分かるでしょ、と膝の上に置いた楽譜の束を掲げてみせた香穂子に、吉羅は小さな溜息をつく。
「私は、『何故ここで譜読みをしているのか』を問うているつもりだが」
香穂子が芝生の上に腰を下ろしたそこは、理事長室の窓のすぐ下だ。先程から、彼女が音譜の並びに合わせて歌う声が、締め切った窓の向こうから微かに聴こえていた。
「えっと……お天気よくて、気持ちいいからです」
邪気なく香穂子が言い切った。
吉羅は腕組みをして、斜めに香穂子を見下ろす。
「君は気分がいいかもしれないが、先程から君が発する騒音が、私の仕事の妨げになる。どうしても歌いたいのであれば、余所でやってくれたまえ」
「……って、それ、私が何か歌ってったことですか? うわ!恥ずかしい!」
頬を桜色に染めて、慌てたように香穂子が立ち上がる。ぱたぱたと片手でスカートの埃を払いながら、じゃあ場所を変えます、と素直に言った。
そこに、注意を受けたことによる落胆は、微塵ほどもなくて。
彼女を見ていると、いつも楽しそうだと思う。
誰かと話をしている時も、校内を歩いている時も。
……そして、ヴァイオリンを弾いている時も。
嬉しそうで、楽しそうで。
絶えず笑顔でいるから、彼女を見ていると姉のことを思い出す。
ヴァイオリン以外の楽しみを知らず、若くして散った花。
「……日野くん」
もう一度。
吉羅がぽつりと呼びかける。
荷物をまとめ、立ち去る用意をしていた香穂子が、その場に立って、目線の位置が高い吉羅の顔を真直ぐに見る。
……こんなふうに、躊躇いなく、迷いなく。
純粋である眼差が。
面ざしは特に似ている部分があるわけでもないのに、何故か吉羅の心にある、姉の面影を引きずり出す呼び水になるのだった。
「君は、音楽が楽しいか?」
吉羅の突然の問いかけに、香穂子は特に困惑するでもなく。
一つぱちりと大きく瞬きをして。
ふわりと、柔らかく微笑んで、「はい」と頷いた。
先人は唄う。
「命短し、恋せよ乙女」と。
ヴァイオリンにその身を捧げ、自分ではない誰かを愛することもなく逝った姉を思い出すたびに、いつもこの一節が頭の隅を過って行く。
花が咲き誇る期間は短いのに。
すぐに終わってしまうのに。
姉は、そんな花の盛りを楽しむこともなく、ただ音楽だけに翻弄されて、命までも失ってしまった。
日野香穂子に、姉の面影を見るたびに。
彼女が、真摯にヴァイオリンに打ち込む姿を見るたびに。
自分にこそ、ファータに巻き込まれ、音楽の道を歩まざるをえなくなった彼女を導く義務があるのだと知りながら。
その行為の裏側で、本当に彼女にヴァイオリンを続けさせていいのかという迷いすら生まれて来る。
姉の、音楽に捧げた一生を愁う自分こそが。
香穂子を更に音楽の道へ、導こうとしている事実。
その矛盾が、いつだって。
吉羅を苛立たせる原因になるのだ。
「……あの、理事長?」
黙り込んだ吉羅を訝しむように、一歩窓枠に近付いた香穂子が、下から吉羅の顔を覗き込んだ。
また、真直ぐな、純粋な視線に射抜かれて、反射的に吉羅は窓から一歩後ずさった。
「……何だね、日野くん」
努めて冷静さを保ちながら尋ねると、香穂子はふと苦笑するようにして小さく首を傾げた。
「例えば恋をしていても。それが辛い想い出になる時だってあるんですよ」
吉羅は。
香穂子の言葉を、脳内で繰り返して。
微かに、目を見開いた。
「……間違っていたらごめんなさい、なんですけど」
香穂子はそう前置きして、口を開く。
「恋をしてたって、幸せじゃない人は、いっぱいいます。恋をしてても、幸せだって言い切れない人。楽しいこと、嬉しいことばかりが恋じゃないと思うから。だから……上手く言えないんですけど、理事長のお姉さんは、とっても幸せだったと思うんです」
「……幸せ?」
低い声で、吉羅が問い返す。
幸せ、なんだろうか。
ヴァイオリン「しか」存在しない……そんな人生は。
「幸せだったと思いますよ」
にっこりと。
香穂子は笑う。
ひとかけらの、偽りもなく。
「だって、それほどまでに夢中になれるものなんて、一生かけたって、ホントはなかなか出会えないものなんですから!」
ヴァイオリンに出会うまでの香穂子が、少なくともそうだった。
平凡に、毎日を生きて。
同じ日常を繰り返して。
世界に何の影響を及ぼす波風を立てず、そんなふうに人生すら終わっていくのだろうと、諦めてもいた。
だが、今。
ヴァイオリンの存在が、香穂子の日常に彩りを与える。
辛いことも、苦しいことも、もちろん存在して。
時々、全てを投げ出したいと思うこともある。
それでも香穂子は、穏やかで平凡に過ごしていた、単調な以前の自分の生活より。
苦しみや辛さを内包する、今の自分の方がずっとずっと幸せだと思える。
ヴァイオリンが与えてくれた、出会いや変化を。
とても愛おしいと思っている。
「……幸せだった、……か」
それ以上は、何も話すことはなく、吉羅は静かにそこに佇むだけだったけれど。
少しだけ辺りの空気が柔らかく変化したことに気付いた香穂子が、目を細めて微笑んだ。
本当に、姉が幸せだったのかどうか。
今ではもう、確かめる術がない。
だが、あの頃の姉と同じ笑顔を持つ人物が「幸せ」だと断言するのだから。
それも、真実なのかもしれないと。
今はもう、そんなふうに思えるのだ。
「……日野くん」
開いた窓に片手をかけて、それを閉めようと身構えた吉羅が、ふと思い出したように香穂子の名を呼んだ。
「はい?」
こちらも場所を移動するために、辺りの荷物をまとめて抱え持った香穂子が、肩越しに吉羅を振り返った。
……どうして、こんなことを尋ねようと思ったのかは分からない。
だが、何故か彼女に問うてみたくなった。
「君は、恋をしているか?」
「え!」
一瞬で真っ赤になった香穂子が、大声で叫んだ。
含み笑いで窓枠に背中を預け、斜めに香穂子を見下ろす吉羅に、香穂子は頬を赤く染めたまま、何故か少し怒ったような表情で、立てた人指し指を口元に当てた。
「……内緒です!」
走り去って行く後ろ姿を見つめながら、吉羅はゆっくりと窓を閉める。
あの様子だと、ヴァイオリンに向ける愛情が姉と酷似するあの少女には、きちんと想い人がいるのだろう。
「そう……ヴァイオリンがあってもなくても。望めば恋は……できる」
誰もいない理事長室で、誰に伝えるでもない言葉を吉羅は呟く。
姉の命を奪ったものを。
……命を削るほど、姉が心を向けた音楽を……ヴァイオリンを。
いつしか、憎しみにも似た気持ちを持ちながら、眺めていたけれど。
本当は、自分は。
そんなふうに弱っていく姉に気づけなかった自分自身を責める代わりに。
音楽やヴァイオリンを、責め続けていただけなのかもしれない。
心を向ける相手がいれば。
……そんな出会いがあれば。
否応なく、恋に落ちる。
そして、そんな恋心から奏でられるヴァイオリンは、甘く、優しいものになるだろう。
……姉は、ただ。
そんなチャンスに、恵まれなかっただけなのだ。
時間をかければ、きっと訪れたはずのその出会いを。
掴む間もなく逝ってしまった姉を、ただ自分は哀れんでいるだけなのだろう。
「『命短し、恋せよ乙女』……か」
柔らかく一文を唄い上げ、吉羅は微かに笑んで、目を閉じた。
花が咲く、盛りは短い。
目に見えるもの全てが美しく、行うこと全てが楽しく思えるという時期は、日野香穂子の人生のうちで、今がまさにその時だろう。
ならば、せいぜい綺麗に咲き誇ればいい。
……それが、誰のために咲く花なのかは、知る術はないけれど。
ただ、清く美しく。
『そう』であれば、と。
随分と素直な気持ちで、吉羅は願った。
あとがきという名の言い訳
この作品が正真正銘、渡瀬の初書き吉羅です。まだぎこちないんだけど、そもそもがぎこちない喋り方しねーか、この人(笑)
言わずもがな、文章内に出てくる唄は「ゴンドラの唄」です。唄の解釈的なものは、渡瀬の個人的な考察によるものです。予めご了承下さいませ。


