ややこしいテーブルマナーも、向側に座る人が、渋い顔をしながらも逐一指示をしてくれるので、特に大きな失敗をすることもない。
「そろそろ、私の指示がなくても支障がないように、マナーをきちんと習得したまえ」
突き放すように思える言葉でも、食後のエスプレッソを口元に運びながら、視線を伏せた吉羅が、
「……君がヴァイオリンで世の中に出ていくことになれば、どこかで必要になる知識だろう?」
と言ったから。
意地悪なんじゃなくて、香穂子のことを考えた上でのあれこれなんだと分かったら嬉しくなって、香穂子はにこにこと笑う。
「……何だね?」
僅かに眉間に皺を寄せる吉羅が、笑っている香穂子をどこか居心地が悪そうに見つめるから。
「何でもありません」
と、香穂子は更に満面の笑みで答えておいた。
「吉羅さんに出逢ってなかったら、こんな場違いなレストランとも全然縁がなかったんですよね」
地下の駐車場に停めてあった吉羅の車の助手席に乗り込み、シートベルトを引き出しながら、香穂子はしみじみと言った。
……しかも、最初は制服姿だった。学校帰りに突然誘われたとはいえ、随分大胆なことをやったんだなと、今さらながら思う。
教育者の端くれとして、また普通の少女だった日野香穂子を音楽の世界へ巻き込んだ、音楽の妖精・ファータとの絆を繋いで来た一族の一員として、今の吉羅が香穂子にあれこれ……時折余分にも見える知識を与える機会をくれるのは、将来香穂子が、ヴァイオリニストとして生きていく時に、恥ずかしくないようにとの責任感なのかもしれないけれど。
「いっぱい、知らないことを知る機会をもらってます。……実は、ちょっと感謝してるんです」
かちりとシートベルトを装着し、香穂子がはにかんだように笑って運転席の吉羅を見る。
……責任感かもしれない。それでも。
多忙なこの人が仕事の合間を縫って、香穂子のために時間を使ってくれていることには間違いがないから。
香穂子の視線を受け、こちらもしっかりとシートベルトを締め、片手でハンドルを握り、車をゆっくりと発進させた吉羅が、窓枠に頬杖をついた。溜息を、一つ。
「……私は、君と出逢ってなかったら、あの鬱陶しいファータとの絆を更新することもなかったし、学院分割案を捨てて、別の良策を考える手間も必要ではなかったし、イレギュラーな君を、理事連中に認めさせるために面倒な策を練らなくても済んだんだが」
「す、すみません……」
淡々と語られたあんまりな内容に、思わず香穂子は恐縮して身を縮めた。
しかし、『鬱陶しい』だなんて。
リリが聞いていたら、きっと、増々鬱陶しい事態になっていたことだろう……。
「……だが」
姿勢はそのまま、フロントガラスの向こうを真直ぐに見つめる吉羅がぽつりと呟いた。
「君と出逢ってなかったら、私は姉を、いつまでも『不幸』にしたままだっただろう」
若くして命を落とした吉羅の姉。
音楽以外の楽しみを知らず、音楽のために命までも奪われた。
だから、吉羅は音楽を憎んだ。
姉が命をかけた、ヴァイオリンを憎んだ。
だが、奇跡としてそのヴァイオリンを与えられた隣の少女は。
姉は、幸せなのだと言った。
人生は短くとも。
不当に奪われた命であっても。
命をかけられる、そんな唯一絶対のものに出会えた姉は。
確かに幸福だったのだと。
……どことなく姉を思わせる、一途で才能に溢れたヴァイオリニストの彼女がそう言うから。
吉羅はようやく、自分自身に巻き付けた憎しみの呪縛から、解き放たれた。
自分が自分に抱いていた、自分の腑甲斐無さがもたらした憎しみ。
それこそが、自分にとっての姉を『不幸』な存在に変えてしまっていたことに気が付いたのだ。
「……感謝、している」
ふと、柔らかく笑んで。
吉羅はそう香穂子に告げた。
その言葉が、とても優しくて。
とても、穏やかだったから。
香穂子の胸も暖かくなって、ふわりと嬉しい涙が浮かんで来た。
「……君が、泣く必要はない」
「は、はい」
ぐずっと鼻を鳴らした香穂子に気付いて、吉羅が静かに告げる。
バッグの中からハンカチを取り出して、それで両目を押さえ、懸命に涙を抑えようとする香穂子に。
吉羅は小さく笑って、一瞬で後方へ流れていく、夜の細やかなネオンに視線を向けた。
君と出逢ってなかったら。
こんな気持ちにも、出会えなかったのであろう。
こんな自分のために、躊躇うこともなく涙を流せる存在を。
……愛おしいと想う気持ち。
恋すらも出来なかった姉を、心のどこかでずっと哀れんで。
自分自身の誰かを好きになる気持ちすら、吉羅は雁字搦めにしていた。
(それを、こんな弱い少女に崩されてしまうとは、ね)
香穂子に出逢って。
彼女の一途な想いに心、打たれ。
……惹かれて。
ようやく、分かったこと。
(だから、君はまだ、君に必要なことをきちんと学びたまえ)
そのための協力なら、自分は惜しまない。
……いつか、一流のヴァイオリニストになったら。
そう、伝えたあの時の言葉を裏切らないように。
十数年封印した、本気で誰かを愛そうとする吉羅の情熱を。
全てその細い両手で、受け止められるように。
あとがきという名の言い訳
理事、源氏計画だったーっ!(=□=;)
んでも、香穂子が理事に与えた影響で一番大きかったのは、やっぱりお姉さんのことを吹っ切った部分にあるかと思います。
この企画の創作それぞれに、微妙にリンクしてるみたいですね。


