02.38.5度

月森×日野

 インターフォンを鳴らすと、屋内で軽い足音がぱたぱたと移動する気配。しばらく玄関前で待っていると、がちゃりと音を立ててドアが開く。
「あらあ、月森くん」
 どことなく香穂子に面ざしが似ている彼女の母親が、笑顔で月森を出迎えてくれた。
 インターフォンを使うのならきちんと相手を確認してからドアを開けた方が、と言いかけた言葉を、月森はすんでのところで呑み込んだ。まるで香穂子に言い聞かせるみたいに、彼女の母親に対して注意を促そうとした自分に心の中で苦笑する。香穂子は母親似なのかもしれない。
「わざわざお見舞いに来てくれたの? ごめんなさいね、あの子熱が高くて、まだ起きられそうにないのよ」
「いえ、構いません。……少しでも様子が分かればと思って立ち寄らせていただいただけですから。……あの、これを。……よろしければ」
 お見舞いに行くのに手ぶらはどうかと思い立ち、ここに来る途中で香穂子とよく訪れる喫茶店で、香穂子が好きなプリンを買い込んだ。以前の自分なら、こんな細かいことに気は回らなかったと思うのに、もしかしたら、こういうささやかな部分から、自分は香穂子に影響を受けているのかもしれない。以前の自分なら、誰かのお見舞いに行くということもまず思い浮かばなかっただろうし、その誰かのために、お土産を買うなんて気遣いも出来なかっただろうから。
 おずおずと月森が小さな紙箱を差し出すと、香穂子の母は「あらあら、御丁寧に。ありがとうございます」と、笑顔でそれを受け取った。
「……ああ、そうねえ。せっかくだから。……ちょうどいいかしらねえ」
 プリンの箱と月森を見比べながら、香穂子の母が一人で自問自答する。
 何事かと様子を見守る月森を見上げ、にっこりと笑った。
「月森くん、身体は丈夫?」
「……は?」
 不意打ちの問に咄嗟に答えることが出来ず、月森が怪訝に眉を寄せる。月森の反応に頓着することなく、香穂子の母は自分のペースで話を続けていく。
「香穂子に風邪を移されたりはしないかしらねえ。それと……まだお時間の方はある?」
「ええ、それは構いませんが……」
 困惑したまま応じる月森に、増々笑顔になった香穂子の母親は一つの提案をする。
 その笑顔は、香穂子が何か悪戯を思い付いた時のような、得意げな笑顔によく似ていた。

(お買い物に行きたかったんだけどね、香穂子の熱が高くて、目が離せなかったのよ)
(月森くん、ちょっと御留守番頼めるかしら? このプリンでも食べながら、あの子の様子を眺めていてくれればいいから)

 ベッドの脇に無造作に置かれていた使用済の体温計が示している香穂子の熱は、38.5度。
 横たわる彼女の顔は熱で赤く染まり、頬には汗が滲んでいた。荒い呼吸から、苦しそうなのが見て取れる。
 香穂子の母から渡された、トレイの上に乗っている一人分のプリンを、月森はどうすることもできずに側にあった丸テーブルの上にトレイごと乗せる。香穂子が目覚めていて少しでも元気そうだったら、甘いものが苦手な自分の代わりに、食べてもらうつもりだったのに。
 迂闊に声もかけることが出来ず、月森はまるで自分のどこかが痛むかのように顔を歪め、そっと香穂子のベッドの側に跪く。何をどうしていいか分からないまま、恐る恐る香穂子の額の上の濡れタオルを取り上げて、頬の汗を拭ってやった。
「……ん」
 途端、薄く開いていた唇を引き結んだ香穂子が眉間に皺を寄せる。慌てた月森が動きを止めると、小さく震えた瞼が、ゆっくりと開く。焦点の定まらない視線を巡らせ、香穂子がベッドの脇にいる月森を捉える。ぱち、と緩慢な瞬きをして、ふわりと笑った。
「月森くん……だ」
 きっと熱で辛く、呼吸も苦しいはずのに。
 月森を見つけた時の彼女が、本当に嬉しそうで……幸せそうで。
 そんな彼女の様子に、月森の心も彼女への愛おしさで不意に満たされる。
「大丈夫……か?」
「うん……熱い……」
 小さな声で月森が尋ねると、答えになってない答えを香穂子が呟く。
 一度口にしたらそこから気持ちが動けなくなったのか、熱い、熱いと繰り返して、身を捩る。

 ……こんな時に、そんなことを考えている場合じゃないと、よく分かっているのに。
 はだけた襟元や、浅く荒い呼吸。肌に滲む汗。
 薄く開いた唇、赤く染まった頬、……そして熱に潤んだ瞳。
 その全てが、月森に愛される時の彼女に似ていて。
 月森の体温も、何だか上がっていくような心地。

 月森はふと思い付いて、さっきテーブルの上に乗せたプリンを取り上げると、スプーンで一口分すくい上げる。
 程よく冷えたプリンを口の中に含み、そのまま香穂子に覆い被さるようにして、口移しで分け与えた。

 熱い舌を絡ませるようにして与えたプリンは、すぐに香穂子の熱に馴染んで、冷たさを失ってしまったけれど。
 香穂子はその冷たさに安心したように小さく息をつき、ゆっくりと目を閉じると、また深い眠りに落ちていった。

「……いっそのこと、俺に移して早く治してくれた方が、気が楽だ……」

 ぽつりとそう呟き、その場に座り込んで頭を抱えた月森の胸の中に。
 香穂子の体温と同じ、口移しで与えられた38.5度の熱が燻る。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:08.11.16/加筆修正:2010.7】

葛藤月森。頑張れ月森!(笑)
以前、やっぱり香穂子の風邪ネタを書いて、香穂子母の諸々が結構好評だった気がするので、性懲りもなく再登場(笑)
ちなみに、病気になって食欲落ちると、やたらとプリンだとかゼリーだとかが食べたくなるのは私です。やっぱり冷たいからかな?

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