やる気なく机の上の書類を指先でめくりつつ、金澤はその微かな音楽に合わせ唇の端に挟んでいた煙草を上下に揺らす。
途切れ途切れの微かな音を脳内で繋ぎ、朧げな曲の形は金澤にも見えていた。それは有名な楽曲。恋人を失った嘆きの音楽。
遠くで奏でられている楽曲が何なのかは、あまり頓着する事項じゃない。問題は、この曲が『こう』弾かれている、その違和感。
叶わぬ恋を歌う、切ない旋律が定石のはずだ。だが、今遠くでヴァイオリンが奏でる音色は、どこか雰囲気が違う。
だからこそ、金澤にはこの音楽を奏でるヴァイオリニストが誰なのか、簡単に想像が付く。定石に捕らわれず真正面から音楽と向き合い、自分の中の感情を素直に音に表す奏者。
「……日野」
数週間まで素人だったはずの、未熟なヴァイオリニスト。
奏でられるのは、フォーレの『夢のあとに』。
愁いを帯びて、切なく、物悲しく受け取られることが多いはずのこの音楽が、彼女のヴァイオリンにかかれば、やけに希望に満ちた、新しい道を模索するための旋律になる。
それはきっと、彼女自身がそんな性質の持ち主だから。
何かに躓いたり、壁にぶちあたったりしても、めげずに前を見て、心の底から希望を信じていられる。
……そんな、幼く無邪気で。
しなやかに強い。……そういう人間だから。
(俺にはもう、そんな力はないからな)
それは金澤が持ち合わせていない強さだから、こんなふうに自分は彼女の演奏が気になるのかもしれない。
未熟で、拙くて、お世辞にも上手いとは言えなくても。
その音には、そこにしか、……彼女にしか、生み出すことの出来ない確かな『何か』が備わっている。
テーブルの上の灰皿に火の付いた煙草を押し付けて、金澤は音楽準備室から外に出る。微かな音の根源を求めて、大きなストライドで校舎内を歩く。
(……何だ?)
校門近くまで来たところで、金澤はふと怪訝に眉を寄せる。ずっと大気中に融けながら流れていた旋律が、突然ぷつりと途絶えたのだ。
「あ! 金やん!」
校門前には既に人だかりが出来ていた。その場に辿り着き、輪の外側からそれを眺めていた金澤に、中心にいた人物が先に気付いた。細かくウェーブを描いた髪の先を弾ませて、天羽が「いいところに来た!」と金澤を手招いた。
いつもなら「どうせ下らない取材だろ?」と無視を決め込んだはずだが、彼女の様子があまりにも普段と違って切羽詰まっていて、金澤は増々眉間に皺を寄せつつ、人垣を押し分けるようにして天羽のところに近付いていく。
そして、そこにある光景に、金澤は驚愕にゆるゆると目を見開く。
輪の中心、天羽が立っていたその場所にへたり込んだ華奢な身体が見たからだ。
「おい、どうした? 日野」
膝を付いて、金澤が香穂子の顔を覗き込む。ぎゅっと目を瞑ったままの香穂子は、青ざめた顔で、微かに唇を開いて荒い呼吸を繰り返している。
「風邪みたいなんだよね。この2、3日、調子が悪いって言ってたんだけど」
金澤の背後から天羽がひそめた声で告げる間にもどんどん人垣の厚さが増していく。心配そうにする者、興味本位で様子を伺う者、その動機は様々だが。
「何が原因であるにせよ、このままここに座らせておくわけにはいかんだろ」
溜息を付き、金澤は香穂子の腰に腕を回し、まるで荷物を抱えるみたいに「よいしょ」と肩の上に担ぎ上げた。周りの人垣から、一斉に冷やかしの拍手と口笛が沸き上がる。
それを気にしたふうもなく、金澤は背後の天羽に視線を向ける。
「天羽、日野の荷物持って保健室に行って、校医を掴まえておいてくれや。早くしないと、もう帰ってもおかしくない時間だからな」
「オッケ」
頷いて、天羽は更に背後にいた報道部の後輩達に声をかけ、ヴァイオリンやら荷物やらを保健室に運ぶように指示をする。そのあと、自分は校医を足留めするために走り出していった。
「ほら、見せもんじゃねえぞ。散った散った!」
片手でひらりと人垣をあしらうと、まだからかうような声を上げながらも、それ以上の進展はないと悟った人垣がぞろぞろと崩れていく。呆れたようにもう一つ息を付き、金澤は保健室に向かって、香穂子を抱えたまま歩き出した。
ぐったりと金澤に全体重を預ける香穂子は、それでも軽いと金澤は思う。
熱もあるのか、触れている部分の肌が熱い。
この軽い身体で。
華奢な四肢で。
彼女は、『あの』ヴァイオリンを弾く。
(……病人なのに、な)
微かに風に融けた、切なく、愁いに満ちた。
それでも、常に前を向く、……そんな牽引力に溢れた音楽。
病に疲れた身体でも、心の強さがあの希望に満ちた解釈を可能にする。
(それに比べりゃ俺の方が……)
立ち止まったまま。
どこにも行けず、何にもなれず。
ただ、ここにいるだけで留まっている、金澤の方が。
本当は、彼女の何十倍も病んでいるのかもしれない。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:08.11.16/加筆修正:2010.7】
病人なのにヘタレ金やんよりは心が強いかもしれない日野ちゃん(笑)今回、何故か大人組が違う雰囲気で書き上がってます。どちらが先だったかは忘れたんですが、理事か金やん、どちらかの雰囲気にどちらかが引っ張られました。


