06.下がらないネツ

吉羅→日野

 窓の外から聴こえてくるヴァイオリンの音色に耳を澄ませ、そして吉羅は訝しげに眉を寄せる。
 この音色を奏でている人物は分かっている。
 いくら耳障りだから余所で弾けと言っても、めげることのない女生徒が奏でる、前向きな音楽。
 いつしか吉羅は、理事長室の裏で彼女が演奏することを、辞めさせることの方を諦めた。どんなに突き放しても、さすがにあのファータに見込まれた人間ということだろうか、一向に諦める気配がない。ならば、言っても無駄なことに労力を費やすこともない。練習途中の未熟な旋律というマイナス要素はあるが、生演奏のBGMと考えれば、音楽学校ならではの贅沢だろう。
 そう思って、いつの間にか黙認していた彼女の練習だが、今日は少し事情が違う。
 しばらくの間、黙ったまま閉められた窓を凝視していた吉羅だが、どうにも我慢が出来なくなって、すたすたと部屋を横切り、窓に手をかける。鍵を外すと同時に乱暴に窓を開くと、視線の先にいた女生徒が驚いたようにヴァイオリンを弾く手を止めた。
「……理事長」
 ぽつりと呟いた女生徒……日野香穂子は、突然窓を開けた吉羅を驚いたように目を丸くして、一つぱちりと瞬きをすると、気を取り直したようにふわりと笑顔になった。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。……それよりも、日野くん」
 律儀に応じた後、吉羅は険しい表情のまま香穂子を手招く。不思議そうに吉羅とヴァイオリンを見比べた香穂子は、両手にヴァイオリンと弓とを握ったまま、窓の下に駆け寄った。
「なんですか?……ひゃっ!」
 思わず香穂子が身を竦める。断りもせず、吉羅は掌で駆け寄って来た香穂子の額に触れた。
 香穂子が何となく想像していたとおりの、冷たい大きな掌。
「あ、あの……?」
「無理はするなと再三言っているだろう!」
 困惑した香穂子が上目遣いに吉羅の様子を伺うと、本気で怒った声で、吉羅が怒鳴った。反射的に香穂子が身を竦める。
「今すぐヴァイオリンを片付けて帰宅したまえ。支度が終わったら、駐車場まで来なさい。車で君の家まで送ろう」
「え、……ええ?」
 訳が分からない香穂子を余所に、吉羅はあっさりと窓を閉めて、ジャッと音を立ててカーテンも閉じる。呆然と香穂子がそこに立ちつくしているうちに、理事長室から人の気配がなくなった。
(……駐車場って、言った)
 香穂子がこのままここにいても、吉羅は駐車場でずっと香穂子のことを待っているのだろう。よく分からないけれど、ああ言われたのだから、駐車場へ行かなければならない。とりあえず行ってみて、それから詳しい事情を聞くことにしようと、ヴァイオリンを片付けるためにのろのろと香穂子は踵を返す。
 そうして何気なく、香穂子は弓を持っていた手の甲で自分の額に触れる。まだ吉羅の掌の感触が残る、その額。
(……あ)
 上手く働いていない脳裏で、ようやく香穂子は気付く。
(……何か、熱い)


「確かに君がしっかり練習しなければ、オーケストラもアンサンブルも成功はないだろう。だが、そのためには体調管理も重要なことだと、私は以前にも言ったと思うが?」
「すみません……」
 ふかふかのシートに身を埋め、香穂子は小さな声で詫びた。熱があるのだと一度実感してしまうと、先程まで何事もないようにヴァイオリンが弾けたことの方が嘘みたいに、身体がだるかった。
「でも、言い訳じゃないですけど、ホントに気付かなかったんです……」
 熱があること、と掠れた声で言った香穂子に、運転席の吉羅はちらりと視線だけを寄越した。
「……君が気付かなければ、他の誰も君の身体をいたわりようがない。他でもない自分自身の事だ。もう少し気を付けたまえ」
「……はい」
 力なく頷き、香穂子はちらりと視線を上げる。冷たい印象の、端正な横顔。ぼうっとする頭でその横顔をじっと見ていたら。……何となく、言いたくなった。
「……理事長?」
「……何だね」
 冷たいように思えても、きちんとこの人は香穂子の話を聞いてくれている。受け入れられるかどうかは別の話としても。それが、嬉しかった。
「上手く言えないけど……どれだけ身体が辛くても、そんなことは関係なく、ヴァイオリンを弾きたい時があるんです」
 吉羅は、香穂子に気付かれないよう、その言葉に小さく息を呑んだ。
「そういう熱意っていうのかな。それがある時って、身体の不調なんて関係なく、信じられない力が出たりするんですよ。どうしても駄目な時は、どんなに自分が頑張りたくても、頑張れないと思うし」
 だから、頑張れるうちは大丈夫なんです。
 そう呟いた香穂子に、君は何も知らないからだと怒鳴り付けたくなる感情を、吉羅は必死で抑え込んだ。
「……とにかく、体調を崩して本番が台無しになるのでは、本末転倒だ」
 気を付けたまえ、と押さえた声音で言った吉羅に。
 はい、と香穂子が小さく頷いた。

 彼女を家まで送り届け、また車で学院まで戻る道程に、吉羅は病で亡くなった姉のことを思う。
 不調を隠し、ヴァイオリンを弾き続けて、そして命までをも削った姉。
 その姉の身に起きた不幸を、詳しくは知らない香穂子が口にする言葉は、ただの理想論だと分かっている。
 ……だが。

 あの、真直ぐな心根が。
 めげない、折れない精神が。
 いつだって、頑に閉ざしたままの吉羅の心を揺らすから。

(精神論なんて、私は信じない)
(だが、君の言葉にも嘘はないのだと、理解は出来る)

 吉羅の知っている真実と、彼女が抱く理想とは、別次元のものだ。……それでも。

(もしかしたら、私は願っているのかもしれない)

 彼女のヴァイオリンにかける熱情は、吉羅の心の奥底で、彼女という存在ごと温度を下げることなく燻っていて。
 そうして自分は、その存在を心に住まわせたまま、彼女が起こすであろう奇跡を、確かに待っているのだから。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:08.11.16/加筆修正:2010.7】

全く糖度のない話だなと思って書いてたんですが、意外にも、吉→日がちゃんと出ていたようです(笑)相変わらず理事は難しいんですが、理事創作は割と好評なので、書くのが楽しくなってきました(笑)

Page Top