07.心配性
月森×日野
「ちゃんと暖かくして、栄養のあるもの食べて……あ、お風呂入った後で髪の毛濡れっぱなしで放置とか、言語道断だからね。ちゃんと乾かしてから寝るんだよ」
香穂子を送り届けた彼女の自宅玄関前。
香穂子は真面目な顔をして、月森への注意事項を指折り数えて並べ立てる。
まるで子どもに言い聞かせるみたいだと、月森は苦笑いした。
「そんなに心配しなくても、ちゃんと気をつけるから大丈夫だ」
「どうだか!」
月森が言うと、香穂子は憤然として言い捨てると、片手を腰に当てて呆れたように溜息を付いた。
「だって、月森くんって自分の事にはてんで無頓着なんだもん。指とか腕とか、外側の怪我にはうるさいクセに、内側の健康管理に関しては結構いい加減だし」
ヴァイオリンの練習に熱中して睡眠不足で体調を崩したりすることは稀なことではないから、そう指摘されてしまうと月森は二の句が告げない。
「私には、すっごくうるさいくせにさ」
香穂子に対しては、いつも「無理をするな」「体調管理を徹底しろ」と口煩く注意する月森を知っているからこそ、ついつい愚痴めいた口調になってしまう。もちろん、その裏にある彼の感情が分かっていないわけではないのだが。
「それは……君にはいつでも、元気でいて欲しいから」
「……つまり、私もそれと同じ気持ちなんだってば」
だから、わかるよね? と香穂子が伺うように首を傾げた。
毎日、毎日、幸せで、楽しい……そんな幸せな二人の時間を、繰り返し過ごしたいから。
二人のうちどちらかが体調を崩して、その日一日、一緒に過ごせない、なんてことになったら。
……馬鹿みたいだけれど。
きっと、灯りが消えた一人きりの部屋にいるように、とても寂しいと思うから。
「すまない」
「別に、謝らなくても、いいんだけど」
苦笑したまま月森が詫びると、拗ねたように横を向いた香穂子が、小さな声で呟いた。
「……とにかく、その引きかけの風邪、ちゃんと治してよね」
拗ねた口調のまま言った香穂子に、月森は何故か満面の笑みで頷く。
「ああ、分かっている」
「……何で笑ってるの?」
極上と言えるくらいの、満面の甘い笑顔で香穂子を見つめている月森にちらりと視線をやり、香穂子が尋ねた。
「……言わない」
どうしても緩んでしまう口元を手の甲で押え、珍しく悪戯っぽく笑う月森が首を横に振った。
「え、どうして?」
「言うと、君が怒る」
「ええ?」
困惑して眉を寄せた香穂子が、むう、と唇を尖らせた。
「何か、そういう言い方されると余計に気になるよ。……怒らないから、ちゃんと教えてよ」
「……本当に、怒らないか?」
念を押すと、うん、と香穂子が頷く。
視線を伏せた月森の笑顔に、ほんの少しの寂しさが混ざり込んだ。
「こう言うと不謹慎なのかもしれないが……心配をされるということは、とても幸せで嬉しいことだと……そう思ったんだ」
両親も祖父母も、決して月森を冷遇しているわけじゃない。
体調を崩せば心配をしてくれるし、できる限りの世話を焼いてもくれる。
だが彼らには、月森以上に彼らの存在を必要としている人がいるから……それを理解していたから、月森は必要以上の我侭を言えなかった。言えばきちんと受け入れられることも知っていて、それでもあえて言わない努力をしてきたのだ。
だが、香穂子は違う。
……これは、彼女にとっては重荷になる考え方なのかもしれない。
それでももう、月森は『知って』いる。
彼女には、心配をかけてもいいことを。
弱い部分を見せても、疲れて我侭を言っても。
仕方ないなあと呆れながら、彼女がその全てを受け入れてくれることを。
彼女に、その覚悟があるからこそ、それがほんの些細な理由であっても、彼女は月森を『心配』してくれるのだということを。
これっぽっちも関心がないのなら、初めから彼女はこんな細かいことを月森に言い聞かせたりはしない。
彼女が月森に対して、不必要なほどの心配をするのも。
彼女が心配するのを知っていながら、月森がそれを気負わずにいられるのも。
そうして何かを互いの身に重く預けてしまったからといって、この関係が壊れることがないことを二人は知っているから。
何よりも『心配』というものが、お互いに深い関心を抱くからこそ生まれるものだと……知っているから。
「だから、俺は今とても幸せなんだと……そう、実感したんだ」
少しだけ寂しさを混ぜた、それでいて柔らかな月森の微笑みに、香穂子は一瞬息を呑んで。
……それから。
不意に手を伸ばした香穂子は、強くない力で月森の精悍な頬を指先でふに、と引っ張る。
虚を突かれた月森の反対側の頬に、精一杯の背伸びをして、キスをする。反射的に掌を上げて、彼女の唇の感触が残る頬を押さえた月森が、呆然とした顔で香穂子を見つめる。
「……香穂子」
「……風邪が移るから、本番はお預けだから! 悔しかったら、ちゃんと言うこときいて、早く風邪治してね!」
照れ隠しを含み、早口でまくしたてた香穂子は、身を翻し、ドアを大きく開いて、そしてまた勢い良く閉じたドアの向こうに消えた。それでも月森はその場に立ち尽くしたまま、しばらく香穂子に与えられたキスの余韻を噛み締める。
「……そうだな。早く治して、本番に備えないと」
嬉しそうに破顔し、閉ざされた扉を見つめ、月森は香穂子にはもう聴こえない言葉をぽつりと呟いた。
そう……早く、この風邪を治して。
こんな俺の事を、いつも案じてくれる心配性の君の唇に。
感謝の、キスを。

