それでも許される限りは、ずっと。
一緒にいたいと。
そう、願っていたんだ。
月森の自室の本棚に綺麗に整頓された背表紙を、香穂子は指先でなぞりながら追っていく。英語なら、拙い知識で何とかタイトルを読み取れる。月森に教わったクラシックの楽譜の曲名も。
その中に、時々別の文字。
香穂子には解読出来ない別の国の文字。……おそらくは、ドイツ語か、それともフランス語。
ウィーンかパリ。……何かの話の折に、いつか自分も行ってみたいと月森が言っていた都市。
……香穂子にとっては、そんな場所に行く事は、例えば目的がただの旅行だとしても、現実味のない場所だけれど。
(月森くんにとっては現実だよね)
心の中で呟いて、香穂子は読めない外国語で綴られた、金箔押しの背表紙を指先で撫でる。
ここ最近、月森の自室には外国語の原書が増えた。彼の両親が、仕事で欧米に行く際に土産として買ってきてくれるのだと月森は言う。
最初のうちはそれも真実だったのかもしれないが、最近は頻繁に新しいものが増えていく。だから、香穂子は月森のその、優しい嘘に気がついている。
それに気付かない振りをすることが、香穂子が月森に与える優しい嘘だ。お互いに、お互いの嘘を知っていながらも、それを決して指摘しようとしないのは、やはり月森も香穂子も、それが長く続けられる嘘ではない事を、ちゃんと知っているからだった。
月森は、もうそう遠くはない時期に、もっと広い世界へ旅立っていく。
そして、香穂子はそこには行けない。……周りは、香穂子をそこへ導こうとする。その実力は備わっていると評価してくれる。
だけど、どれだけ前向きにその道を歩む自分を空想してみても、香穂子は「そこ」にいる自分を、思考の中ですら、確かな形に出来ない。
それは、まるで映画の中の、作り物の世界のようだ。
……だから、自分自身がそこの世界に生きてはいけない人間だと言う事が分かる。
例えば、万に一つ、香穂子がその世界で生きていける可能性があるとすれば、それは、そこに月森がいるからという理由だけで。
そんなふうに、香穂子という存在がのしかかってしまえば、さすがの月森でも潰れてしまうだろう事は、容易に想像出来る。
(だから、私は行けないの)
それは、淋しくて、辛くて。
だけど、どうしようもないほどに、真実だった。
月森が月森でいるためには。
香穂子が香穂子でいるためには。
……もうすぐ、離れ離れになることこそが、必要になってくる。
今は嘘でどうにか切り抜けられることでも、もう否応なく真実を見つめなければいけない瞬間がそこまで来ている。
月森も香穂子も、言葉にしないだけで、その現実に気付いている。
だから、あえて互いの嘘を追求はしない。
今、無理に暴いてしまわなくても、それはいつしか、どうしようもなく二人の目の前に突き付けられる、逃れようのない現実だからだ。
「……何か、興味深いものがあるか?」
不意に背後から落ち着いた低い声がかけられる。背中のすぐ側に気配を感じて、香穂子が斜めに背後を振り仰いだ。
「うーん、さすがに原書は無理かなあ。面白いの?」
「……読み手の受け取り方にもよると思うが。……内容的なこともそうだが、訳書と比べてみるのも面白いな。いろんな解釈の仕方があって」
ああ。と、香穂子は心の中で嘆息する。
受け取るものによって、受け取るものが変わるもの。
人それぞれの捉え方次第で、何通りの道筋を作るもの。
それは、人の人生で。
……そして。
(……それも、また)
(音楽、だね)
月森が、近い将来に。
香穂子よりも先に、選ぶもの。
月森にとって、かけがえのないもので。
決して、誰もその代わりになれないもの。
「……香穂子」
香穂子の身体越しに、月森は腕を伸ばし、本棚から本を一冊抜き取った。俯いて、ぱらぱらと紙面を捲りながら、世間話の続きのような気安さで、香穂子の名を呼んだ。
「……何?」
香穂子もまた、当たり前の日常会話のような心持ちで、その呼びかけに応じる。紙面を見つめたままの端正な横顔を、真直ぐに見上げた。
「……俺に、何か我侭を言いたくないか?」
何?それ。と。
笑いたくなって。
それと、同時に。
酷く、胸が締めつけられて。
泣きそうになって。
香穂子は、ちょっとだけ、呼吸を呑んで、整えた。
「……何でもいいの? 我侭」
小さな声で呟くと、同じ音量の小さな笑い混じりの月森の声が、穏やかな音色で答えた。
「……もちろん」
……香穂子が告げる、我侭を知っていて。
その我侭を香穂子が通す気がないことも、そして自分自身が叶えられない事も。
多分、月森は知っていて。
だけど、もうすぐ。
その優しいはずの嘘ですら。
もう、ただ。ひたすらに。
香穂子を痛めつけるだけのものになってしまうのだと、月森は知っているから。
だから、こんなふうに甘やかす。
……甘やかす事も、今しか出来ないと、知っているからこその。
月森の、残酷な優しさ。
今、彼が自分に優しくすることそのものが。
最悪に卑怯で。
罪深い事だと。
そう、心の奥底で責めながら。
香穂子ももう、知っているのだ。
香穂子の他愛無い我侭も。
もうすぐ、月森を痛めつけるだけのものになってしまうことを。
今しか言えない事だから。
言う事を許す、彼の優しさ。
「……どこにも」
もうすぐ、言えなくなる。
我侭だと知っている。
だけど、それはまぎれもなく。
香穂子の中の、真実の願い。
「……どこにも、行かないで……」
月森のシャツに片手で縋り付いて。
叶えられないと知っている我侭を、香穂子は呟いた。
「……ああ」
月森は、俯いた香穂子の肩を片手で抱き寄せて。
ただ静かに。
「……俺は、どこにも行かない」
ずっと、君の側にいる、と。
この世の中で一番甘やかな。
優しくて、優しくて。
そして、とてつもなく、残酷な。
嘘を、告げた。
あとがきという名の言い訳 【掲載日:2016.7.18】
無印月日の、渡瀬の中での基本形ですね。
不器用な子たちだなあ、しみじみと。


