頼むから逃げないでって、そんな風に泣かないで

月森×日野

「単刀直入に聞くけど」

 月森の自室。いつものように月森の大きな壁際のベッドの上に腰掛けて、壁に背中を預け、月森は読書に勤しみ、同じように本を読むのが好きになってきたという香穂子が、自分で購入してきた文庫本を眺めていたのだが、香穂子が何を思ったのか、突然パタンと両手で本を閉じ、揺れるベッドの上に正座して、真面目な顔で月森に問いかけた。
 一方、突然話を切り出された月森の方は、本の世界から現実へ戻るのが一瞬遅れた。紙面から顔を上げて、ベッドの上で正座している香穂子に視線を向けると、それと同時に香穂子が唇を開いた。

「私に、『女』の魅力って、あると思う?」

 月森は、咄嗟に香穂子が告げた言葉の意味が分からない。目を丸くして瞬きをすると、不安定なベッドの上に両手をついた香穂子が月森の方へ身体を乗り出した。
「ねえ、どうかなあ?」
「……どうかな、と言われても」
 近付いてくる香穂子から、反射的に後ずさる月森が、困惑したままの口調で答えた。
 そこにきて、ようやく香穂子の告げた言葉の意味に辿り着いた。
 ……『女』としての、魅力。
 ……とは、どういう意味だ?
「……少なくとも、俺は女性としての君を好きだと思うから、今ここに、こうしているのだと思うが?」
 月森にとっての香穂子に、女性としての魅力があるからこそ、月森は彼女に惹かれた。もちろん、そこには彼女のヴァイオリニストとしての魅力も、人間としての魅力も含まれているが、月森は彼女の中身を区分けして好きになったわけじゃない。
 ヴァイオリニストとしての彼女も、ただ一人の人間としての彼女も、月森にとっては、愛すべき「日野香穂子」という存在であることには、変わりがないのに。

「……あー、えっとね。だからつまりね」
 月森の言葉は素直に嬉しいのだが、香穂子にとって、問題はそこじゃない。わずかに頬を赤く染めながら、香穂子はぎゅっと拳に握った両手を、柔らかなベッドに押し付けて、俯く。
「あの……月森くんから見て、私って……その。だ、……抱き締めたいとかって、そんなふうな気持ちに、なるような魅力があるのかな、って……」
 徐々に頬の赤味を増していく香穂子に、月森は驚いて瞠目する。

「……急に、何故?」

 香穂子の質問にはわざと答えずに、月森は問を問で返した。
 俯いたままの香穂子が、しゅんと肩を落とした。

「……自信が、ないから」

 ぽつりと小さな声で。
 香穂子が呟いた。


 月森は、綺麗だ。
 音楽科にも、そして学内コンクール以後、普通科にもファンが多いが、香穂子は素直に、それに納得する。
 だけど、鏡を覗き込んで。
 今まで、特に誰からも振り返られることのなかった、平凡な自分を省みて。
 分からなくなる。
 何故、こんな平凡な自分が、月森の側にいるのか。
 何故、こんな自分を彼が好きだと言ってくれるのか。

(不安なんだよ)

 ヴァイオリンは、未熟で。
 こんなふうに、子どもじみた不安をぶつけずにいられない程、人間的に成長もしていなくて。
 せめて、女として引き止める術でもないと。
 月森を、失ってしまうような気がして。

「……お願い」
 再度、香穂子がベッドの上を滑るようにして、月森の方へ乗り出す。やはり月森は、反射的に後ずさる。壁に背中が当たって、それ以上逃げられなくなる。
 浮かんだ涙で目を潤ませて、香穂子が、細い声で呟く。
「……遠慮して嘘、つかなくていいから。逃げないで、教えて。……私に、月森くんを繋ぎ止めるほどの、『女』としての魅力ってあるのかな……?」

 壁際に追いつめられて、月森は自分の頬に、熱が集まっていくのが分かる。香穂子は自分の疑問をぶつけるので精一杯で、それに気付かない。

(ああ、頼むから)
(そんなふうに、泣きながら)
(逃げるな、なんて)
(言わないでくれ)

 ……香穂子が、多分一番分かっていないのは。
 一般的な女性の魅力(おそらく、ここで彼女が言うのは、外見的な魅力のことだろう)など、容易く凌駕する、彼女だけが持つ引力の強さと。
 ……月森が、彼女へと抱く、どうしようもなく、持て余すほどの重い愛情だ。

 頭で考える間もなく、反射的に月森は手を伸ばし、ベッドの上についていた香穂子の片腕を掴んで引き寄せた。
 バランスを崩した香穂子が、咄嗟にもう片方の片手で自分を支え切れず、壁に背を預けたままの月森に覆い被さる形で倒れ込んだ。
「あ、……あの、ごめ……」
 咄嗟に謝って、身を起こそうとした香穂子の動きを、彼女の髪に埋めた指先で止めて。
 月森は、そのまま香穂子の頭を引き寄せる。わずかに開いた唇を、彼女のそれに強く押し当てた。
「つ、つき……」
 驚いて身を起こしかけた彼女の動きを許さずに、自分の名を呼びかけた彼女の声を呑み込んで、月森はただ、夢中で深く、彼女に口付ける。
 合わせた唇のその隙間から、甘くくぐもったお互いの呼吸と、溜息がこぼれ落ちる。
 深く、長いキスに、やがて香穂子の身体から力が抜けて、月森の身体に彼女の華奢な身体が預けられる。
 僅かに唇を離して、香穂子を見下ろす月森が、甘く笑った。
「……これで、俺の気持ちは証明されたと思うが?」
 とろんとした香穂子の眼差が、ぼんやりと月森の笑顔を捉える。
「あんなに可愛い泣き顔で、逃げないでと言われて、それで逃げられる男が、いると思うか? ……あるかないかを論じるよりも、君はまず、もう少し、自分の持つ魅力とやらを自覚するべきじゃないのか」
「……私、の。魅力?」
 ぼんやりとしたままの香穂子が、ぽつりと呟く。
 珍しく、悪戯っぽく笑う月森が、額を合わせて香穂子の目の中を覗き込んだ。
「少なくとも、君のあの無自覚な迫り方には、抱き締める程度で済む話ではないが」
「せ、せま……っ!」
 我に返り、真っ赤になって反論しようとする香穂子だが、数分前の自分の言動を振り返って、月森に迫ったと言っても別に過言じゃないということに気が付く。
 ごめんなさい、と香穂子が恐縮して頭を下げると、苦笑した月森が、ふと香穂子のサイドの髪を掻き分けて、柔らかい曲線を描く耳に、小さなキスを落とした。
「……にゃっ」
 くすぐったがる香穂子が、珍妙な声を上げて、身をすくめた。
 形を辿るように舌先で肌をなぞった月森が、香穂子の鼓膜に直接届くように、近い場所で囁いた。
「……俺以外の前で、あんな無防備な事は、しないでくれ。君の認識がどうかは知らないが、他の男に対してあれをやられたらと思うと、気が気じゃない」
 
 それは、決して逃げられない。
 彼女の、媚薬のような魅力的な涙。




あとがきという名の言い訳 【掲載日:2016.7.18】

渡瀬の『甘々』認識が『エロい』と紙一重だって話ですねははははは(乾いた笑い)
香穂子を割と無自覚天然な感じにしてしまったので、それ以上に天然なかなでちゃんを書くのに今現在苦労しているという……。

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