玄関から一歩を踏み出して、香穂子はゆっくりと、溜息のように長く息を吐く。一月の冷たい空気に、香穂子の呼吸は白く柔らかな色になる。
目を上げれば、門扉の側にもたれかかるようにして、長身の人影が香穂子を待っている。お待たせ、と声をかけると、斜めに香穂子を振り返った月森が、小さく笑った。
あのクリスマスの告白の日以来、久し振りに二人で辿る通学路。
お互いの気持ちがはっきりと通じ合っていなかった冬休み前と違い、今の二人はまぎれもない恋人同士だ。
休み中にも、何度か二人で逢って、ヴァイオリンを練習したり、遊んだりもしていたのに、学校へ向かうとなると、また何かひと味違う。冬休みは会えなかった友人達も多いから、『月森の恋人になった香穂子』と初めて顔を合わせることになる友人もいるのだと実感したら、別にそれだからどうということもないのに、どんな顔をしていいか香穂子は迷った。
歩きながら、他愛のないことを話す。冬休み中の課題は終わったかとか、3学期にはどんな新しい曲を練習しようかとか。
他に誰も聞いている人なんていないのに、寒さも手伝って、何となく距離が近付いて。
並んで歩く月森の左手と、香穂子の右手が歩いて揺れるたびに、触れ合う。何度かぶつかって、そのたびに謝り合って。
そうしていつのまにか、手袋越しにそっと手を握り合った。
二人が歩く通学路を使う学生は、意外に少ない。交差点を渡って、学校が近付くとその人数は徐々に増えて来るが、とりあえず、今この瞬間に、星奏学院の制服に身を包んだ者は、香穂子と月森の二人だけ。
……だから、交差点を渡り終わったら。
香穂子は、この繋いだ手を離そうと考えた。
離し難いけど。
……本当は、ものすごく繋いでいたいけど。
人に騒がれることが月森は何よりも苦手なのに、あのクリスマスイブのコンサートを経て、それから冬休みを越えて。
そうして学院の生徒達にそれはもう色々な意味で注目されている香穂子と手を繋いで登場、だなんて、目立つことこの上ないだろう。
(……うん、迷惑にならないように、我慢しなきゃ)
……月森は、香穂子に想いを告げることを、随分と悩んだのだと打ち明けてくれた。
月森は、近々留学することが決まっていたから。
香穂子はそれで構わなかった。
香穂子も、躊躇っていた。遠くはない未来に、確実にいなくなってしまう月森を想い続けること。
きっと、必ず辛くなる恋なのに、その恋を続けてしまうこと。
でも、今の香穂子の生活全てが、月森の影響を受けて創られたことに気付いた時、香穂子は離れ離れになることが、もうどうでもよくなった。
たとえ、離れ離れになったとしても、香穂子が月森を好きになる気持ちは止められないだろう。
月森のヴァイオリン。香穂子が憧れて目指すもの、そのものが、月森が造り出すものである限り。それに惹かれて、想いを寄せることは、止めようがないのだろう。
……だからこそ、迷いながら、悩みながら、それでも香穂子との短い期間の恋を選んでくれた月森に、それ以上の負担をかけたくない。
香穂子の身勝手な我侭を、押し付けたくない。
……本当は、この人は私のものなんだよ、って、いろんな人に見せびらかしたいような気持ちもあるけれど。
それもやはり、香穂子の勝手な我侭だから。
交差点が近付いて、目線の先にある十字路に、ちらほらと見慣れたコートを身にまとう人達の影が見え始める。
少しだけ、残念な気持ちで、香穂子は小さな溜息を付いて。
そして、月森と繋いでいた指を、そっと解く。
離した瞬間、そんなはずはないと分かっているのに、ほんの僅かな月森の温もりと切り離されたことで、冬の冷たい空気が、一気に香穂子の熱を奪ってしまうような気がした。
(……え?)
……熱を失ったのは、ほんの一瞬。
また、すぐに。
繋がれる、長い指先。
(……ええっ!)
驚いて、香穂子は右隣に立つ長身の人物の顔を振り仰ぐ。
香穂子の驚いた表情を見て取った月森は、どこか照れくさそうに頬を染めて、微笑む。
香穂子と繋ぎ直した指先に、ほんの僅かな力を込めた。
「……離さなくて、いいから」
肩が触れ合うほど近く。
香穂子にしか聴こえない、優しい柔らかな声音で。
月森は、そっと囁いた。
「あの……でも……すっごい目立つと思うよ……?」
伺うように、月森の顔を上目遣いで覗き込みながら、香穂子がぽつりと呟いた。
「構わない」
やけにきっぱりとした口調で、月森は言った。
自分の手より幾分か小さい、香穂子の手を持ち上げて。ふと表情を緩める。
「君の手は、暖かいな。俺はあまり体温が高くはないから、君の熱が心地いい」
そういえば、月森の指先はいつも冷たかったなと、何度か触れたことのある彼の指先の温度を、香穂子は思い出した。
「今、離されてしまっては、せっかくの君の熱が足りなくなる。どうせなら、学校に着くまで繋いでいてくれないか?」
「あはは、私、ホッカイロ?」
思わず香穂子が笑い出す。
そういえば、昔から子ども体温で、冬場はいろんな友達から重宝されてたっけ、と幼かった頃を思い出した。
「うん、私だけが持ってても持て余すだけだから、どんどん吸収していって。ヴァイオリンの練習するのにも、指、あっためないといけないしね」
ちょっとだけ。
ちょっとだけ、艶めいた感情を期待した本心は隠して。
香穂子は納得して頷いた。
月森は、そんな香穂子の横顔を見下ろして。それから何故か、困ったように溜息をつく。
「ん? どうかした?」
そんな月森の様子に、あっさりと気付いた香穂子が、月森を見上げて尋ねる。ちらりと視線を香穂子に落とし、それから月森は、ふと香穂子から視線を外し、遠い場所を見た。
「……そんなにあっさり納得されてしまうと、本心を告げようがない」
「……え?」
まだ、交差点に辿り着く前。
あと数メートルだけの、二人だけの通学路。
身を屈めるようにして、香穂子の耳元に唇を寄せ。
低い月森の声が、甘く告げる。
「そういう理由を口実にして、君が俺のものだと、皆に見せびらかしたいんだ」
そうして、月森の言葉に真っ赤になった香穂子の熱が。
温もりが足りなかった、冬の空気に冷えた月森の身体を、繋いだ指先を通して、満たしてくれた。
あとがきという名の言い訳 【掲載日:2016.7.18】
改めて読み直してみると、「この馬鹿ップル! リア充め! けっ!!」って気分になりますねえ……(遠い目)
そのまんまだと裏行きの話を書いてしまいそうだったので、なるだけ可愛い話になるように頑張ってた記憶があります。


