どうしてこんな痛み俺に教えたんだ

月森×日野

 君と出逢うまでは。
 これは知らなかった痛みだから。




 旋律を弾き切り、細かく施すヴィヴラートの響く余韻を確かめ、やがて一人きりの室内に静寂が忍び寄る。
 余韻が消える頃、月森は肩からヴァイオリンを外し、小さな溜息を付く。練習の成果は確実に現れる。費やした時間は、月森を裏切らない。だが、納得のいく演奏が出来たはずの月森の表情は冴えなかった。
 月森は、視線で室内をぐるりと見渡す。薄暗い室内。暗譜してある楽譜に目を通す必要はなく、ただ月明かりだけを頼りにヴァイオリンを弾く。その静寂は、確かに昔の月森にとっては好ましいものだったはずなのに。

(……寂しい)

 言葉にすると、酷く胸に痛い。
 情けなくて、恥ずかしくて。
 自覚してはいけないことだと思うのに。
 もう、月森はこの胸を苛む痛みの理由を知っていた。

 誰もいない部屋。
 誰も、月森の奏でる音色を聴くことのない、一人きりの部屋。
 過去には当たり前だったこの光景を、突然寂しく感じ始めた、その理由は。
 今はもう、この誰にも聴かれるはずのない音を、聴いて、そして喜んでくれる存在がいることを、知ってしまったからだ。

(君を好きになってから、俺はどんどん弱くなる……)

 苦笑して、月森は心の中に住む一人の少女の事を想う。

 一人は平気だったのに。
 当たり前の事だったのに。
 もう、月森は一人でいることが寂しいことだと知っている。一人でいることに胸を痛めてしまう。
 それは、きっと。
 自分を理解してくれる人と一緒に過ごすことの心地よさを、知ってしまったから。
 香穂子と共に過ごす幸せの味を、知ってしまったから。


 机の上の、マナーモードの携帯電話が、小刻みに震えて着信を知らせる。反射的に手を伸ばし、月森はそれを取り上げた。
 誰と確認しなくても、こんな時間に月森の携帯を鳴らす人物は限られているのだ。

「もしもし」
「あ、月森くん?」
 朗らかな、普段聴くよりも落ち着いた香穂子の声。受話器の向こう、耳元近くで優しく響く。
「夜遅くにごめんね。今、大丈夫?」
 少し不安そうな声も、鼓膜に直接届くから、すぐにその感情が伝わる。小さく笑いながら、月森は頷く。
「ああ、構わない」
 電話は苦手だった。
 用件が終われば、家族が相手でも、早々に通話を切る方だ。
 だが、香穂子が相手の時だけ。
 くだらない話を続けたくなる。同じ話を何度もループしたくなる。
 そうすれば、その間だけ。
 月森と香穂子は、繋がっているから。
「あ、あのね。……特に何の用があるっていうわけじゃないんだけど。……月森くん、今何してた?」
「ああ。……俺は」
 ヴァイオリンの練習を、と返しそうになって。月森は口籠る。
 確かにそうなのだけれど。間違いではないのだけれど。
 今、月森の心を占めていたものは、ヴァイオリンとは全く関係のない、情けない感情で。
 でも、それは。
 香穂子がいて、生まれて来た情けなさで。
 ……ふと。
 それを、香穂子に伝えてみたらどうだろうと思った。
 情けないと。
 みっともないと、幻滅されるのかもしれないけれど。

 誰もいない部屋で、不意に寂しさに満たされて。
 君の声が聴きたくなる。
 ……君にどうしようもなく逢いたくなる。
 寂しくて、恋しくて。
 胸が、痛い。

「……君、を」
 ぽつりと、落とすように月森が低く呟く。

「君を想って、……一人が、寂しいと。……そんなことを考えていた」

 言いながら、月森は壁際に寄り、そのまま背中を壁に押し付け、ずるずると座り込む。立てた両膝に顔を埋めて、回線の向こうで息を呑むように黙り込んだ香穂子の反応を、恐がりながら、待っている。
 息を殺し、香穂子の声を伺う月森の鼓膜を、柔らかく揺らす、穏やかな香穂子の甘い声。

「……そっか。なら」
 一緒だね、と。
 香穂子が笑った。

「……君は」
 自分から、話題を与えておいて、俯いた頬が熱い。わざわざ鏡で確認しなくても、赤くなっているだろうということが分かる。
「俺が、情けないと……そうは思わないのか。独りきりだと……君がいないと、寂しい、だなんて」

 こんな、痛み。
 知らない方がよかったのに。
 何故、覚えてしまったんだろう。
 情けなくて、恥ずかしくて。
 それなのに、香穂子を好きでいる以上。
 おそらくは、逃れられない。
 永久に蝕まれる、心の痛み。

「情けなくないよ」
 やけにきっぱりと、受話器の向こうの香穂子は答える。
「私も同じだよ。月森くんに逢えない時は寂しくて、理由もないのに、声が聴きたくて……だから、こんなふうに突然電話して」

 好きだからこそ。
 逢えなくて。それが哀しくて、寂しくて。
 逢いたくて、声が聴きたくて。
 痛くなる、胸の奥。

「月森くんが、同じ気持ちでいてくれて嬉しいし。……それはきっと、悪いことなんかじゃないよ」

 独りでいることは。
 平気なようにみえても、平気なことなんかじゃなくて。
 本当に『平気』だと言えるのなら、きっと、そのことの方が、寂しく辛いことだと、香穂子は思う。
 香穂子に出逢うまでの月森が、独りでいることの寂しさを知らず、それが当たり前のことだと思って、傷付くこともなかったと言うのなら。
 今、月森が香穂子と出逢うことで知り始めた、独りきりの痛みと寂しさには意味がある。

「情けなくていいの。寂しくて、当たり前だよ。……月森くん。独りが寂しいから、私達、二人でいることが幸せだって想えるんだよ」

 独りの辛さを。
 その痛みを、知るからこそ。
 二人でいることの幸せを味わうことができる。
 裏返して言えば、その、二人の幸福を知ったからこそ。
 独りでいる孤独に、痛みが伴う。

「……そうか」
 そうかもしれない、と月森が頷く。

 孤独が寂しく痛いものだと知った。
 他でもない香穂子に、月森はそれを教えられた。
 だからこそ、二人でいることの。
 その大切さをも、月森は香穂子から、教えられたのだ。




あとがきという名の言い訳 【掲載日:2016.7.18】

弱さも見せてこそだよ月森!(何やねん)
知らないよりも理解していることの方が大切です。……というのが渡瀬の思惑だったりします。そういう部分は創作のところどころに現れる(笑)
書く方も知ってないと書けないことが多いものだからして、結論としては何でも自分の糧にすればいいんですよという話です。

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