002.手

火原×日野

「あれっ!? 香穂ちゃん!」

 昇降口を出てすぐ、誰よりも大好きな女の子の姿を見つけ、火原は驚きで目を丸くした。
 受験を間近に控えた身の火原は、それに関連する細々とした雑事が多い。もちろん、毎日香穂子と一緒に帰りたいのはやまやまなのだが、季節も冬に近付いている昨今は、日が暮れるのも早いし、香穂子に自分の事で無理や我慢をさせたくないし。
 ……だけど、そんなふうに会えないのが毎日だと、火原の方が禁断症状でどうにかなってしまいそうだから、一応欲求を80%くらいに留めてみたりの努力をして。
 そして、今日も面談で遅くなってしまった。待たせるのは分かり切っていたから、香穂子には「先に帰ってていいからね」と、ちゃんとメールをしておいたのに。
 こんな寒い場所で、いったいどれくらいの長い時間、自分を待っていてくれたのだろう、鼻の頭と頬とを寒さで真っ赤にした香穂子が火原の声に振り返り、ずり落ちそうになるマフラーを引き上げながら、屈託なく笑いかけた。
「練習室でヴァイオリン弾いてたら、ものすごく熱入っちゃって。遅くなっちゃったから、どうせなら火原先輩待ってようかなって思い付いたんです。……ごめんなさい。先に帰っていいって気を使ってもらってたのに」
「ううん! そんなの全然いいって! 嬉しいよ」
 ぶんぶん、と大きく首を横に振って、火原は言った。

 香穂子が、とても寒そうに見えて。
 頬も、髪もとても冷たそうで。
 可哀想だと思うのに。
 ……どうしよう。
 そんなになってまで、自分を待っててくれたことがとても。
 ……とても、嬉しいだなんて。

「おれの方こそ、ごめんね。面談終わって、つい教室で友達と話し込んじゃってさ。こんなことなら無駄話しないで、さっさと帰ればよかった」
「私が火原先輩を待ってたかったんだから、全然いいんです。……でも、もう少し待ってみて会えなかったら、メールしてみようかなって思ってたんですけど」
 そう思ったら、出てきてくれたし。と香穂子は笑う。

 彼女が話す度に、ふわふわと浮かび上がる綿菓子みたいな白い息。
 冷たそうで、でも柔らかそうな香穂子の白い頬がピンクに染まっていて、可愛い。


 コートだけ羽織って、朝登校時に無造作に薄い鞄の中に突っ込んだ手袋はそのまま嵌めずにいた。
 暖房の効いた教室に長くいたせいで、温もりを残したままの火原の両手。
 ……手袋、してなくてよかったなあと頭の隅で思った。
 多分、何かを介してよりも。
 上手く、ちゃんと彼女に伝わる気がする。

 温もりも。
 ……そして、自分の気持ちも。


 両手を伸ばして、何も嵌めていないまっさらの手で、香穂子の赤くなった両頬に触れてみる。
 火原の骨張った大きな掌の中には、しっとりとした香穂子の冷たい頬がすっぽりと収まってしまう。
 前触れもなく、突然火原に触れられた香穂子は、驚いたようにぱちりと一つ大きく瞬きをして。
 そして、まるで雪が温もりに溶けて、消えてしまう瞬間のように。
 寒さによって生成された頬の強ばりを溶かして。
 柔らかく。
 ふわりと、微笑んだ。


「……うわあ」
 感嘆した火原が、思わず呟く。
 自分の頬に触れる火原の手から逃げることなく、逆にその手の甲に手袋に包まれた片手の指先を触れさせた香穂子が、上目遣いに火原を見る。
「……『うわあ』って。何ですか?」
「うん。……ちょっと、びっくりした。おれの手の威力、結構すごいなって」

 脈絡のない火原の言動にも、香穂子はまるで初めからその答えを知っているみたいに。
 ちょっとだけ、誇らしげに頷いて、火原の掌に自分の頬を躊躇わずに委ねてくれる。



 ただ触れるだけでは、はっきりと目に見える形で簡単に誰かに何かを与えることなんて、本当は出来ないのだろうけど。
 それでも、この手は。
 ……この手を通して、自分が彼女に与えた温もりは。

 あの彼女の至福の微笑みを。
 生み出す力を、ちゃんと持っているんだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.3.4 加筆修正:10.6】

「色々~」の中では一番最初にネタがあった話です。が、あまりにもあっさり風味なので書いていいのかと思ってました(笑)
私的にはこういう他愛無い話、書きやすくて好きなんですが。

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