006.笑顔

志水×日野

 気分が落ち込むことに明確な理由なんて、本当は必要がないんだと香穂子は思う。

 事実、きっかけが何だったかなんて覚えていない。「何だか付いてないな」とふと自覚したら、そこから気持ちはあっさりと下降の一途を辿った。一度沈み始めた気分は、些細なことで下へ下へと加速した。
 階段の段差でつまずいたり、目の前の信号が渡る直前で赤に変わったり。そんな些細なマイナスポイントでも、全てが気持ちを下降させるための背中を押した。授業が全て終わった放課後、屋上のベンチに腰を降ろした時には、香穂子の気持ちはどん底もいいところまで落ちていた。

(……志水くんに、逢いたくないなあ)
 何とも表現し難い複雑な本心を、濾過してできるだけ簡単に拾い上げてみると、香穂子の思いはその一言に濃縮された。
 本当は、逢いたい。
 できるだけ、彼と一緒の時間を過ごしたい。
 だけど、こんな落ち込むだけの自分の側に、いて欲しくない。
 そうしないように気を付けたいけれど、つい心無い言葉で傷付けたり、思いも寄らぬところで迷惑をかけたりするかもしれない。
 ……もしかしたら「それでいい」と彼は言ってくれるのかもしれないけれど。
 それならそれで、自分でさえ持て余してしまうこの行き場のない苛立ちと痛みを、逆にどう教えていいのかが分からない。

 堂々巡りを繰り返すだけの思考に、香穂子は思わず溜息を付いて空を見上げた。
 雲の少ない綺麗な青空が広がっているのに、何だかちっとも晴れている気がしなかった。


 やがて遠くに、階段を昇るのんびりとした調子の足音が聴こえてきて、香穂子はちょっとだけ緊張をする。
 逢いたくない、でも逢いたい。
 自分がどう思っていても、ここで逢う約束をして、それを断ってはいない限りは逢わなければならなくて。
 だったら、少しでもマシな自分で逢いたい。
 このどうしようもない憂鬱さが、せめて彼に伝染しなければいい。
 ……そんなことを、思った。

 香穂子の背後で、ぎいーっと、ゆっくり屋上の鉄製のドアが音を立てて開く。
 わざわざ振り返らなくても、香穂子には誰が辿り着いたのかが分かる。
 彼の足音はのんびり、マイペースで。
 どんなところにでも持ち歩く大きなチェロのせいで、少しだけ重い。
 ……その足取りの重さの理由は、香穂子が今持っているものと全然違うけれど。

 「……香穂先輩」と小さく志水が呼び掛ける声。
 香穂子はゆっくりと深呼吸した。
 重く沈んだ心を悟られないために、香穂子にも心の準備が必要だった。

 とことこと近付いてくる足音。
「香穂先輩?」
 ベンチ越しに、斜めに志水が座っている香穂子の顔を覗き見る。
 香穂子は懸命に微笑んだ。
 ……上手く、笑えているかな。
 落ち込んでいるのがわからないように。
 重い気持ちは、伝わらないように。
 そんなふうに祈るように思いながら、志水を見つめる香穂子の視線の先で、ふと志水は薄い唇を引き結ぶ。
 チェロを抱えたまま、何かを思い悩むように、ちょっとだけ空を見上げる仕草をした。
(……あれ?)
 香穂子が訝しむ。
 いつも通り、何もないように、頑張って笑ったつもりだったのに。
 ……やっぱり、気付くのかな。
 言葉で説明出来なくても、はっきりと実感出来なくても。
 感覚的に、志水はそういうものを、察知してしまう人だから。

 「どうしたんですか?」と落ち込んでいる理由を問い質されるのかと思って香穂子は身構えたが、予想に反して志水は何も言わなかった。
 少しだけ迷ったように視線を巡らせた後、意を決したように香穂子の隣に腰を降ろした。
 香穂子からは心持ち距離を取って。……多分チェロを弾くには、少しだけ間隔が空いていた方がいいから。
 地面にケースを置いて、慣れた手付きでチェロを準備して。
 そうして特に香穂子に何を言うでもなく、視線を心持ち上向きに、前方に向けて。
 音色を確かめるように、ゆっくり、丁寧に。
 チェロを弾く。

 曲になっていない単品の音が、残響を伴いながら青い空に溶け込んでいく。
 志水がこちらを見ないから、香穂子も志水がしているのと同じように、少しだけ顔を空に向けて、目を閉じた。
 真っ暗な視界に、光を感じる。それは、優しい太陽光。
 低く、近い場所を流れていくようなチェロの音色が、降り注ぐ光と、同じ優しさで歌っていた。

 ……どん底まで沈んだ気持ちは、そんなに簡単に、劇的に浮上したりはしない。
 だけど、引き上げようとする手が差し伸べられる。
 浮上するその瞬間を、ただずっと待っていてくれる人がいる。
 そのことに、気が付いた時。
 香穂子の沈んでいた気持ちは、ようやくほんの少しだけ高い位置に戻ってきた。

 目を開いて、隣に視線を向ける。
 ゆっくりゆっくり、丁寧にチェロを歌わせる志水が、その視線に気付いて香穂子を見た。
 何も言わない。
 言葉では慰めない、励まさない。
 だけど、近い場所で寄り添っていてくれる。
 ……そして。


 柔らかく、志水が笑った。
 ただ優しく、穏やかに。
 それは励ますためでも、慰めるためでもなく。
 当たり前のようにそこにある、とても自然な笑顔。

 暮れていく空に滲む、暖かな茜色のように。
 空の色を、綺麗なグラデーションに変えていく色。
 寒色で冷えきっていた香穂子の心の中に、暖色の赤を落として、温もりを広げて混ぜ合わせる笑顔。

「……香穂、先輩?」
 嬉しくて。
 嬉しくて嬉しくて、胸が一杯になった。
 その気持ちをちゃんと笑顔で返したいと思ったのに。
 その時溢れたのは、涙だった。

 胸の奥に冷たい固まりで澱んでいたものが、志水から受け取った暖かさで、溶けて流れ出した。

「……ごめんなさい」
 チェロを弾く手を止めた志水が、しゅん、と肩を落として、香穂子の涙に指先で触れる。
「僕……どんなふうにすればいいのか、分からなくて」
 一目で香穂子が落ち込んでいるのが分かった。自分に心配をかけないように、無理をして笑っていることも。
 言葉で慰めるのも、態度で励ますのも、自分は上手くない気がして。
 一番伝えやすい方法で、香穂子に届けばいいと思った。
 苦しい時には、無理をしなくていいのだと。
 辛い時には、辛い顔をしていていいのだと。
 ……それでも、どんな時でも自分だけは彼女の側にいるのだと。
 そのことが、伝わればいい、と。
「ううん、違うの。志水くんが悪いんじゃないの。……ただ、嬉しくて」
 首を横に振る香穂子が泣きながら微笑んで、自分の頬に触れる志水の手に自分の手を重ねた。

「ありがとう、志水くん」

 今度はちゃんと笑えたと、香穂子にもはっきりと分かった。
 無理に取り繕ったものでも、重い気持ちを隠すためのものでもない。
 本当の、心からの笑顔だと。
 志水が香穂子にくれたものと同じ意味の。
 穏やかな、笑顔だと。

(返せるかなあ)

 志水が落としたあの笑顔から、香穂子が受け取った、沢山のもの。

(返せたら、いいなあ)

 優しい気持ち。暖かな色。

 そして気持ちが落ち込んでいる時に、ただ側で寄り添って。
 自分のために、大好きな人が微笑みかけてくれることの。

 そのかけがえのない僥倖を。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.7.29 加筆修正:10.6】

友人に捧げたお話でした(笑)
志水には慰めるという感覚はなく、どういう状況でも変わらずに側にいてくれそうな気がします。
落ち込んでても無理に浮上させるというより、ただ隣にちょこんと座っていてくれる感じです。何も聞かないで、ただ隣にいて欲しい時もあるよね(笑)

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