028.漆黒の鎌

柚木→日野

「お前……俺に苛められたいの? もしかして」

 どうして突然、そんな言葉が溢れてしまったのか、自分でも良く分からない。
 楽譜に落ちていた香穂子の視線が、ぱちりと一つ緩慢な瞬きをして、驚いたように見開かれたまま、傍らに佇んだ柚木の視線をまっすぐに受け止めたので、そこでふと柚木は我に返った。

 普通科二年、日野香穂子。
 柚木が関わり慣れた女生徒達のように、柚木という存在に対して、浮かれることもはしゃぐこともなく、何を言っても、どんなふうに対応しても、一本揺るぎない芯が中心に通っているようで、ふらつかない。
 喜んだり、はにかんだりする仕草は見せても、先輩後輩の関係そのものを彼女が踏み越えようとする気配がなかったから……余計に日野香穂子という人間に対して興味を持ったのかもしれない。
 柚木は、香穂子にだけ本性を晒した。
 世間を見下して、斜めに物事を見る、漆黒の一面。
 柔らかく、優しく作り上げた人格の裏で、柚木が大切に大切に磨き続けていたもの。
 ……ふらつかないものを、ただ揺らしてみたかった。
 柚木が知っている、理解しているはずの女生徒像と、一線を画する少女。
 柚木の外側に張り巡らせた『完璧』に揺らがない人間であるならば、全く逆のベクトルで作られたものになら揺らぐのではないかと思えた。
 ……始まりは、少しの好奇心と暇つぶしの期待。
 そして香穂子は、そんな柚木の期待を裏切らなかった。
 柚木の違う一面に怯えて、逃げて……そして立ち向かった。泣いたり喚いたり、散々に揺らぎながら、彼女もまた、柚木が気付かなかった彼女の一面を見せ始めたのだ。
 ……だが本当は、それは彼女の奥に初めから見隠れしていた、芯の強さ。
 それは柚木が想像していたよりもずっと、しなやかで。
 柚木に翻弄され、揺れるだけ揺れて……そして、最後まで折れなかった。
 柚木が見せた想像もしない彼の一面に、さざめいて波立った香穂子は、いつの間にか、荒れた水面が凪いでいくように。
 静かに柚木を呑み込んでしまったのだ。

 私、マゾじゃないんですよと真面目な顔で呟いて、香穂子はまっすぐに柚木を見る。
 大きな瞳が、平らな水面のように柚木の戸惑った表情を映している。
「もちろん、苛められたいわけないでしょう。でも私、柚木先輩の側にはいたいんです」
「……何故?」
「面白そうだから」
 まるで馬鹿にするような言葉を、真面目に香穂子が呟くから、柚木は怒るに怒れない。どこかで一度、自分の頭の中にも描いた台詞だなとぼんやり思った。
「……面白い?」
「ずっと側にいたら、分かる気がするから。白王子でも黒王子でもない、本当の柚木先輩が」
 香穂子の言葉に、柚木は呆気に取られ、思わず目を見開いて香穂子を見た。
 ……そこにあるのは、水面のように綺麗に澄んだ瞳。
 時々揺らぐ、……しかし凪いで静かに広がる。
 真実を映す鏡のような。

「……理解るわけがないだろう……!」
 冷静に呟くつもりだったのに、どうしようもなく声に怒気が混じる。
 自分のものではないような余裕のない柚木の低い声に、香穂子は動じることなく、ただもう一度、瞬きをした。
「お前になんか、理解るわけがないだろう!……俺の事なんか、何一つ知らないくせに……!」
 理解るわけがない。
 いつだって、ふわふわと悩みごとなんてなさそうに微笑んでいる香穂子に。
 普通の家庭で、当たり前の愛情を受けて素直に育ってきた香穂子に。
 ……自由に、奔放に生きてきた彼女に。
 決められたレールの上を決められた通りに生きる、そんな窮屈な柚木の人生の息苦しさなんて。

 その息苦しさ故に、手の施しようがない程に醜く歪んでしまう心なんて。

 そう……知らなくていい。
 お前は、理解しなくていい。
 遠い場所でふわふわと、いつまでも幸せそうに微笑んでいてくれたらいい。
 ……こんな場所には近付かなくていい。
 染まらなくていい。
 変わらなくていい。

 心の奥底で。
 自分でも、滅多に覗くことのない深い漆黒で。
 そう、切実に祈っているのに。


「……そうですね」
 香穂子がふと視線を伏せた。
 長い睫毛で頬に微かな影が落ちて、彼女を柚木が見たこともないくらいの、綺麗な生き物にした。
「だから、知りたいんです」
 伏せた視線を躊躇わず真直ぐに、柚木に向けて射抜く香穂子の眼差だけが。
 いつかこの歪んだ心の、息の根を止めるような気がする。

「……もう、これ以上近付くな」
 ぽつりと。
 どうしようもなく胸に募るものが、無意識のうちに言葉を押し出して。
 柚木の整った唇から漏れた。
「俺には近付くな。理解なんてしようとするな。……もうこれ以上、俺を振り回すな」
 静かに言い聞かせるように柚木が告げた言葉に、香穂子が微かに目を見張る。
 そして、潤む目を隠すように俯く。強い彼女の眼差が、初めて柚木から反らされた。
 足下を見つめる香穂子の隣からゆっくりと立ち上がり、柚木は、彼女に背を向けた。


 心の奥の、更に深い場所。
 漆黒に隠された本心。
 その真実の想いに相反する言葉は、本当の柚木を理解したいと願う香穂子を傷付けて。
 ……そして、柚木自身をも傷付ける。

(いっそ、殺してしまいたいくらいに)

 深い闇の中、息づこうとする暖かな想いを。
 漆黒を凌駕しようとする柔らかな輝きを。
 いっそのこと、ずたずたに切り裂いてしまいたい。
 そうして、その想いの息の根を止めてしまえば。
 もう一度戻ることが出来る。
 彼女と出逢う前の自分に。

 ……何も期待しなくてもよかった、あの頃の自分に。

(でも、……もう遅い)

 本当は、柚木にも分かっている。
 出逢ってしまった。
 見つけてしまった。
 その存在に気付いてしまったから……もう、取り返しがつかない。

 だが、万が一あの光を手に入れることが出来たとしても。
 やはり自分は、どうしようもなく彼女を傷付けてしまうことになると思うから。

 だから、せめて。
 傷が浅くて済むうちに。
 漆黒の刃を振り下ろし、これ以上にないほどに残酷に傷付けて。
 彼女の存在を、遠ざけたいのに。

(全部全部、殺してしまいたい、のに)

 水を根源から断つことが不可能なように。
 どれだけ柚木が傷付けたとしても。
 ……それでも、彼女は辿り着いてしまうような気がする。
 『本当』の柚木に。

 そうなったら本当にもう、彼女を手放せやしないと柚木も知っているから。
 彼女という存在全てを。
 自分が否応なく束縛することが、ちゃんと分かっているから。


 そうなる前に、完全に切り離してしまいたいと。
 心地のいい居場所に落ち着くことから抗おうと、闇雲に振り回して、心の血を流す。

 持つものも、触れるものも、全てを傷つけるための、漆黒の鋭い鎌。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.2.17 加筆修正:10.6】

あとがきという名の言い訳/momo様からのリクエスト「木日@切ない系」で書いてみました。
柚木はある程度まで香穂子が近付いてきたら、今度は距離を置きそうな気がします。距離を置かれっぱなしだとこのCPが成就しないので(笑)香穂子が打たれ強くないと駄目だなあと思います。

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