もう柚木は、音楽の道を進むわけではないけれど、「お前のヴァイオリンがどれくらい上達しているか、確認してやるよ」と誘われて、久し振りに香穂子は練習室の予約ノートに自分の名前を書き込んだ。
二人きりの練習室。フルートを持っていない柚木がここにいるのは、何だか不思議な感じがする。ピアノの鍵盤をぽん、と指先で叩く柚木の様子を見つめながら、香穂子は音楽の世界から本当に離れようとしている柚木に一抹の寂しさを感じながら、その寂寥感から逃れるために、もう一つ自分の心に重くのしかかっていた事を尋ねてみる。
ピアノの前に立つ柚木が、少しだけ驚いたように目を見開いて、香穂子に視線を上げる。……我ながら、馬鹿な話題を振ってしまったと瞬時に後悔したが、口火を切ってしまったからには貫くしかない。目の前の人物は、やっぱりいいですと言ってみても、なかったことにはしてくれない人だから。
「……そんな小さなことが気になるの?」
ピアノに視線を落とし、口元に淡い微笑を浮かべながら柚木が尋ね返す。狼狽えもしなければ、はっきり答えることもない。相変わらず、掴みにくい男性だ。
「柚木先輩って、……『うなぎ』?」
「……その発言は聞かなかったことにしておくよ。理由を聞いてみても馬鹿馬鹿しそうだ」
ぽつりと呟いた香穂子の発言はあっさりとスルーして、柚木は片手で簡単なフレーズを奏でる。そんな短い音楽ですら、気品に満ちて、少しだけ香穂子には分かりにくい、複雑な色をしていて、柚木らしい。
「……なんで、俺の過去なんて気にするの? 俺が今、お前の側にいるだけじゃ、足りないとでも?」
「……そういうわけじゃ、ないですけど……」
今、柚木が側にいてくれることだって、本当は奇跡に近いことだ。
だからこそ、我侭を言ってはいけないと香穂子にだって分かっているのだけれど。
「ただ、柚木先輩は。女の子の扱いに慣れてるし……私が言うことも、いつも簡単にはぐらかしちゃうし」
柚木にとって、自分こそが初めての恋人であればいいと香穂子は思う。
だけど、柚木が自分に取る態度から、それは儚い希望でしかないのだと分かってしまう。
柚木が、今の柚木であるならば、その過去も何もかも受け止めるくらいの覚悟はもちろんあるけれど、だからといって全く気にせずにいられるほど香穂子は出来た人間じゃない。
こんな嫉妬心は、お世辞にも綺麗と言えるものじゃなくて、柚木に晒してみたところでどうしようもないのだけれど、それでも、心の奥にしまいっぱなしにするのは、香穂子の性格上ひどく困難なことだった。
最後にひとつ、高いキーを鍵盤を叩いて。
柚木は立ち上がってピアノの前を離れ、香穂子の側にゆっくりと歩み寄ってくる。
何を言われるのか予測出来なくて、反射的に身構える香穂子の目の前に立つと、悪戯っぽい笑みを浮かべて、香穂子の頬に片手で触れる。
「まあ、教えてやってもいいけど? でも、今日のところは止めとくよ。……お前の方に、覚悟が足りない」
「……え?」
言われたことの意味が分からなくて、香穂子がぱちりと瞬きをして柚木を見上げた。そんな香穂子の頬を、触れていた柚木の手が、曲線に沿って撫でる。ひやりとした感触が頬に広がって、香穂子はそこで初めて、自分が泣いていた事実に気がついた。
「お前が、そうなんですかって一言で、軽く流せるようになったら全部教えてやるよ。心配しなくても、そう難しいことじゃないよ。お前が今の俺を、丸ごと信じられるようになったら、ね」
「……は、い」
香穂子は唇を噛みながら、素直に頷く。
気付かないうちに泣いてしまうくらいに、柚木の過去に自分は簡単に揺らぐのだから、柚木の言う通り、彼の女性遍歴を聞いてしまったら、それはそれで、自分はどうしようもなく落ち込んで、結局柚木を責めずにいられなくなるだろう。
自分から言い出しておいて、一方的に責める。そんな自分勝手なことをするくらいなら、今はまだ、知らない方がマシだ。
「ああ、でも。話したって別にお前が落ち込むことにはならない事実というのも、ちゃんとあるけどね。……聞いてみたい?」
腕を伸ばした柚木が、香穂子の華奢な腰を捕らえる。引き寄せられて、咄嗟に両手を突っ張って上半身だけ柚木から距離を取った香穂子が、上目遣いに柚木を睨む。
「……言って反応楽しみたいんでしょ? 聞きたくないって言っても絶対言うんだから、勿体ぶらずにさっさと言って下さい」
意外に柚木を熟知している香穂子の発言に、柚木は思わず声を上げて笑う。
(そう、お前だけが、どんな俺でも理解してしまうから)
(俺も、お前に囚われてしまったんだ)
「……俺が、俺の本性を自分から教えたのは、お前だけ」
柚木の腕の中から逃れようとする香穂子を、強引に引き止めて。
彼女の額に自分の額を押し当てて、その大きな目の中を覗き込む。
低く囁いた柚木の声に、真直ぐに彼の視線を見つめ返す香穂子の目が、ゆっくりと見開かれる。
外側に作り上げた、欺瞞だらけの優等生の仮面ではなく。
その下にある、少しだけ斜めに物事を見て、世の中を蔑んで。
そうして、越えることが困難な事柄に立ち向かうことを最初から諦めていた、臆病な自分自身を晒してもいいと思えたのは。
よくも悪くも、目の前の香穂子だけ。
「……心を奪われることが本当に『恋をする』ことだって言うんなら。俺が『恋』をしたのは、多分お前が初めてだよ」
例えばそれが、女性関係のことではなくても。
どんな人間と対応する時でも、柚木の脳裏には、いつも柚木の家のことがあった。
柚木家にとって、マイナスにならないように、汚点を残さないように境界線を引いて、そして決まった場所からは絶対にはみ出さないように、気を使って生きてきた。
だけど、香穂子だけは。
……あまりにも自分らしくなくて、簡単に言葉には出来ないけれど。
たとえ、柚木の家を捨てることになったとしても手に入れたいと。
初めて、そんなふうに。
理性も何も関係なく。
呆気無く、心を奪われた。
「……信じません」
涙に目を潤ませて、香穂子が震える声で答えた。
「そんなこと急に言われたって、信じません。だって、柚木先輩、いつだって私を騙してばかりなんだもの」
「別に、今は信じなくても、構わないさ」
懸命に虚勢を張って、こんな自分と対等であろうとする香穂子を。
決して強い人間じゃないくせに、自分のために強く強くあろうとする香穂子を。
……本当に、愛おしく思うから。
「……そのうち、イヤでも信じさせてやるから」
欺瞞ばかりだった自分の言葉では、今は彼女に上手く伝わらないと言うのであれば。
せめて、この触れ合う互いの唇から、伝わればいいと柚木は思う。
生まれて初めて、自分が抱いた。
まっすぐに彼女へと向かう、暖かなこの恋心が。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.3.18 加筆修正:10.6】
あとがきという名の言い訳/特に詳しいリクエストは頂いてなかったんで、柚木ファーストの友人との会話から好き勝手に柚木の女性遍歴について書いてみました(笑)
付き合うの、香穂子が全く初めてって事はなさそうだけど、本当に心を開いたのは香穂子が初めてっぽい。そんな感じで。
どうでもいいですが、恋愛成就後の木日を渡瀬が書くと、無駄に甘い(笑)


