056.ひとつ

金澤×日野

「そう言えば、面白い夢を見たんですよ」

 世間話の続きで切り出された香穂子の話に、「へえ」と気のない声で金澤が応じる。
 昨日までの緊張感が嘘のような、穏やかな冬の1日だった。昨日を境に生徒たちは冬休みに入っているが、教員は仕事納めのその日までしっかりと雑務が残されている。それを片付けるため、嫌々ながらも金澤は出勤したのだが、昼近くになって香穂子がひょっこり音楽準備室に顔を出したのだ。
 コンサートは昨日終わったばかりだ。給料をもらうためには働かねばならない自分とは違い、休みはちゃんと休めばよかろうにと溜息をつく金澤に、家の中じゃヴァイオリンの練習がしづらいんですよ、と香穂子は苦笑する。練習室を使用するためにわざわざ学校まで来たようだ。
 冬期休暇中でも教師が休暇に入るまでは、生徒は自由に練習室を使うことが出来る。
 休憩のために音楽準備室の簡易キッチンで何か温かいものを淹れさせて欲しいと言う香穂子に、自分の分も準備してくれるのなら、という交換条件を提示し、金澤は了承した。……別に自販機で購入すればここで飲み物を調達する必要はないのだが、敢えてそこは互いに気づかないフリをする。
 その作業の最中、香穂子が切り出したのは、昨夜の彼女の夢の話だった。
 金澤の反応が淡白なものになってしまったのは、興味がないというよりは、あまりにタイミングが良すぎてそれ以外に反応のしようがなかったからだ。朝から金澤の脳裏を占めていたのも、自分が昨夜見た夢のことだった。
 香穂子も普段のやり取りから、金澤が話題に食いついてくる可能性は想定していないようで、金澤の反応がどうであろうと話したいことは話すというスタンスを貫くつもりらしい。薄い反応を物ともせず、話を続けていく。
「何と、先生が私たちと同じ高校生で、一緒に学校行ったり授業受けたり、放課後街ブラしてみたりするんですよ! 私、先生のこと「金澤先輩」とか呼んじゃったりして。……まあ、先生の方は別に変わらず「日野」呼びですから、私にとってはあんまり新鮮味はなかったりするんですけど」
 思わず口元に運んだコーヒーを吹き出しそうになるのを、金澤はすんでで堪えた。
 何という偶然か、金澤の昨晩の夢も香穂子と同じ高校生になって見知らぬ常春の島で生活する、というものだった。流石に夢なので細かいことは覚えていないが、朝、目が覚めて今が冬であることに驚いた程度には、リアルな感覚の夢だった。
 たかが夢が金澤にはほんの少し痛みを伴うものになるのは、夢の中の高校生の自分は、過去のように歌を歌うことができていたからだ。ぼんやりとした記憶の中で、自由に歌えた喜びだけが鮮明に残っている。
 そして、夢の中の香穂子は、当たり前のように自分の傍にいてくれた。現実と変わらずに屈託なく笑い、金澤が歌うことを自分のことのように喜んでくれていた。
「そりゃ、さぞかしいい男だったろうなあ。何せ、俺の人生最大のモテ期だからな」
 自嘲を含んだ口調で金澤が呟く。人生最高潮となるともう少し年月が必要となるが、確かに高校時代は怖いものは何もなく、輝かしい未来しか見えていなかった頃だ。
 若いこともあり、恋愛方面でもフットワークは軽かったと思う。今になって振り返ってみれば、それらはどれもこれも幼い恋だったことは理解できるのだが。
「お前さんも、その頃の俺と恋をしていれば、余計な苦労せずに済んだだろうにな」
 思わずそんな言葉を零してしまった。
 香穂子が驚いたように目を丸くし、金澤は我に返って口元を覆う。
 金澤の夢の中でも二人は、学年の違いはあれど同じ学生同士で、現実よりももっと時間を共有していた。他人の目を気にせず、二人並んで歩くことに抵抗を覚えず。……何のことはない、その状況を一番羨んでいるのは、現実の金澤自身だ。もし、自分が香穂子と同じ学生であれば、躊躇なく彼女の隣に立てたはずなのにと、夢の中の自分自身に嫉妬をしている。
「……あー、悪い。余計なことを」
 言った、と金澤が弁明する前に、何かを考え込んで空中を睨み付けていた香穂子が、金澤に向き直る。
「でも。あり得なくないですか?」
「は?」
 すぱっと言い切った香穂子に、反射的に金澤が声を上げる。
 香穂子が真顔で続けた。
「その頃の金澤先生が、私の事なんて相手にするわけがないじゃないですか。私だって、音楽科の3年生で、しかも女生徒を侍らす陽キャラ……というか、リア充ですかね。そういう属性の人と積極的にお近づきになる機会がないですよ」
「いや、侍らしちゃいないがな? 柚木じゃあるまいし」
 そう答えながら金澤もふと考えを巡らす。
 あの若かりし頃、ふとこの女生徒が目の前に現れたら。
 果たして自分は、彼女に心惹かれることがあったのだろうか。

 ……おそらくその心根を知れば、今と同じように愛おしく思っただろう。
 襲いかかる困難に、めげることも曲がることもなく、真っ直ぐしなやかに、何度でも立ち上がる姿。
 だがあの頃の、折れることを知らなかった自分に、この少女の本質を理解することができただろうか。
 折れることのその痛みも、立ち上がるために必要なの力の強さも。
 何もかも分からなかった、あの頃に。

「金澤先生が躓いたり、立ち止まったりすることの苦しみをちゃんと知ってる、今の金澤先生だから。今の私たちもあるんですよ」
 マグカップを口元に運びながら、したり顔の香穂子が言う。「そういうのを……」と何事かを続けかけて、香穂子は不自然に言葉を飲んだ。少し赤くなった頬を冷ますように、片手で顔を煽ぎながら不自然に窓の外に目を向けた香穂子の横顔に、ふと金澤は微笑んだ。
 はっきりと告げなくても、香穂子が言いたい言葉に、きちんと辿り着いたからだ。

「……そうだな。結局、答えはひとつしかないんだよなあ」

 高校生の頃の、人生モテ期最高潮、怖いもの知らずの金澤ではなく。
 もう少し年齢と経験を重ね、真っ直ぐに進むだけではどうにもならないことを知っている香穂子ではなく。

 深い絶望を知るからこそ、香穂子の苦悩を理解できた金澤と。
 純粋に未来を信じられるからこそ、金澤の手を引いて暗闇から引き上げることができた香穂子とが。


 出逢えた奇跡を、一つの言葉で表わすのならば。
 それは『運命』という言葉になる。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:21.3.7】

オクターヴで一番萌えたのは金やんルートでしたねえ。その萌えを糧に書きかけていて、1年近く放置していたものです。やっと結論が出た(笑)

Page Top