遠くに生徒たちの賑やかな笑い声。寒さに凍えて室内に閉じこもる季節は終わったんだなと、金澤は微笑する。
「さしずめ、春の到来。……か?」
春は新しい旅立ちの季節。
……それは『終わり』の季節。
こんこん、と軽いリズムでドアがノックされる。それは、この部屋を訪れる時には誰もが当たり前に行うお決まりの儀式のはずなのに、彼女の場合はノックの音だけでも彼女だと分かってしまうから不思議だ。
……そう、金澤はもうこの部屋を訪れたのが彼女だと分かってしまっているのだけれど、あえて分からないフリを決め込んで、やる気のない声で返事をした。
「……どうぞ~。開いてるぜ」
がちゃりとドアノブが回る。そっと押し開いたドアの隙間からひょっこりと顔を覗かせたのは、普通科の制服を身に纏う一人の女生徒。
「自由登校の身分のくせして、わざわざ学校に来るか? 相変わらずの物好きだな」
肩をすくめて金澤が言うと、両手を腰に当てた香穂子が、拗ねたように頬を膨らませた。
「今日はいいんです! 合格報告っていう立派な理由があるんですから!」
言われて金澤は、先ほど彼女から送られてきたメールの内容を思い出す。
『桜咲く、です!』の一言と、可愛らしく動くハートマークの語尾。
たった一言のメールですら、彼女らしさに溢れた言葉。
「そうだな。……大学合格、おめでとさん」
改めて祝福の言葉を告げた金澤に、香穂子は少し前の不機嫌さは微塵も感じさせず、屈託なく笑う。
その瞬間に、開け放った窓から強い風が入り込む。
金澤の白衣の裾を揺らし、香穂子の赤味がかった長い髪を乱し、室内を一瞬のうちに通り過ぎて行く。
「凄い風。春一番かなあ」
片手で髪を押さえ、ぽつりと呟いた香穂子を見つめ、金澤は少し片目を細めて呟く。
「……春の到来」
香穂子が来る前に何気なく一人で呟いた言葉をもう一度繰り返して。その季節の到来がもたらす現実を、声にして確かめてみる。
「別れの季節だな」
あとわずかで、香穂子はこの学び舎を巣立って行く。
公に出来ない彼女との関係に、早く彼女が『生徒』でなくなってくれればと願った時は確かにあったけれど。
でも、いつまでもここに留まったままの金澤とは違い、彼女は前へ進んで行く。
ここではない、どこか違う場所へと。
……金澤を独り、置き去りにして。
「せーんせ。……しみじみするの、早いですよ」
香穂子が窓際の金澤に歩み寄る。背の高い金澤の顔を下から覗き込んで両手を伸ばすと、痛くない平手で金澤の両頬をぱしりと叩く。
香穂子の両手に頬を挟まれ、一瞬呆気にとられて香穂子を見つめる金澤に、香穂子はふわりと笑いかける。
「確かに春は別れの季節ですけど。つまりは、始まりの季節でもあるんですからね?」
そう、ようやく香穂子たちは始められる。
教師としてでも、生徒としてでもなく。
1人の男と、1人の女として。
お互いに1人の人間として、想いを通わせることのできる。そんな、新しい関係で綴る毎日が。
「……前向きだな、お前さん」
思わず金澤が苦笑する。香穂子が笑って、威張るように胸を張った。
「どうせ、それだけが取りえですもん」
それから香穂子は、さっと片手を伸ばし、金澤の片手の指に挟まれたものを器用にひょいと取り上げた。
「あ、おい、こら!」
「ついでに、先生も心機一転しましょうよ。いきなりやめろとは言いませんから、徐々に本数減らしましょうね。でないと、ホントに歌えなくなりますよ」
容赦なく香穂子は金澤から取り上げた吸いかけの煙草を、側の机にあった灰皿に押し付けて消した。
「だって、いつか私の為に歌ってくれるって約束ですからね!」
満面の笑みで告げて、香穂子は「じゃあ、今度は担任に報告に行ってきます」と、足早に音楽準備室を後にする。
どうも担任に合格を告げるより先に金澤に逢いに来てくれたらしい。
……そのことを咎める気持ちよりも、喜ぶ気持ちの方が勝ってしまうのが、金澤の罪。
「やれやれ、アイツには叶わんな」
苦笑混じりに呟いて、金澤は条件反射的に白衣の胸ポケットに入っている煙草に手を伸ばす。
箱を手に取って、一本抜きかけて。
……決して彼女の言葉に感化されたわけではないけれど、ふと思い直して、その箱を片手で握り潰した。
くしゃりと抵抗なく潰れた軽い紙箱を、そのまま躊躇なく足下のゴミ箱に投げ入れた。
もう、自分は永久に留まったままでしかないと思っていた。
これ以上はどこにも動けないと思っていた。
そんなふうに、既に何かを諦めてしまった金澤の目には、若い生徒たちの奔放な明るさは、時に煩わしく。
……時に、羨ましくて。
自分がもう『そう』出来ない代わりに、彼らこそが自由気侭に、……まるで風のように、未来へと進んでくれればいいと願っていたけれど。
(お前は、俺も連れて行くんだな)
随分と年齢も離れている、金澤が今一番大切にしたいと願う少女は。
持ち前の明るさと強い影響力とで。
もうどこにも進めないと思っていた金澤を、多少強引に、眩しい光の当たる場所まで連れて行く。
目的も何もない自分は、どんなに風に後押しされても、ただふらふらと揺らいで漂うだけで、決してどこにもたどり着くことはないのだと金澤は思い込んでいたのだけれど。
それでも本当は、いつまでもただ漂うばかりではいられない。自分の力で、どこかに辿り着かなければならない。
……そんな現実を、容赦なく突き付ける。
いつのことだったか、「俺の人生は風まかせで、心もとない」と、そうとは気付かないままに弱音を吐いた金澤に、彼女は言った。
(風に流されているだけのように見えるものだって、いつかは必ず、どこかに辿り着くんですよ)
それは確かに、まだ絶望も諦めも知らない無垢な少女が、簡単に呟いた夢物語なのかもしれない。
……だけど。
(……そうだな、俺も今は、そんな夢物語を信じてみたいんだ)
自分が心から願う場所へ。
辿り着くことを祈る場所へ、迷うことなく舵を切って、間違いなく到達する。
それは、いつかは裏切られてしまう夢物語なのだとしても、その夢を心の底から信じている、彼女が側にいるのなら。
もう、終わってしまったように見えていた自分自身ですら。
いつかは、願う場所に辿り着けるのだと、金澤も共に信じていられるような気がする。
何度目かの強い風が、部屋の中を掻き乱す。
それは、白く濁って前が見え辛くなっていた視界を、一掃してクリアにする強さ。
そして、その風に煽られて運ばれた早咲きの桜の花びらが、金澤のいる室内にふわりと舞い込んで。
机の上に置かれたままの金澤の掌の傍らに辿り着いて、当たり前のように寄り添った。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.3.31 加筆修正:10.6】
リクエストの「卒業間近の香穂ちゃん設定」で書いてます。
「2~アンコール」をプレイするともう少し流れが変わりますが、この創作では金やんが関わったコンクール参加者の巣立ちを見届けてから、自分の道を歩いて欲しいかなと希望してたりします。
教師辞めるとしても志水君と冬海ちゃんが卒業してからくらいが希望。香穂子が卒業してから、翌年辞めるために下準備開始って感じがいいな。


