092.理由

衛藤→日野

 行儀悪くアスファルトの地面に直に座り込み、立てた片膝に頬杖をついて、衛藤は目の前の光景を見つめている。
 ……ヴァイオリンを弾く姿は悪くないと思う。意外にも彼女は、余計な癖のない綺麗な姿勢をしていた。
 ただその綺麗な姿勢に、奏でる音色が追い付いていない。
 時折、半音ずれて軋んだ音色が響く。そのたびに衛藤の目の前の未熟なヴァイオリニストは、少しだけ困ったような表情で肩からヴァイオリンを外し、一つ深呼吸をする。そしてまた、躓いたところから繰り返し旋律をなぞっていく。
 衛藤が面白いと思うのは、彼女はそんなふうに失敗した時でも、いつだってどこか楽しそうにヴァイオリンを弾くということだ。
 心から楽しいと思って行動する姿は、傍目に見ているだけの人間の心も何だか楽しいものにしてしまう効果がある。
 ちょうど、明るい音楽を聴けばどこか浮き足立って、逆に重い曲調の音楽を耳にすれば、どこか気持ちが萎んでしまうみたいに。
 だからだろうか。全然下手くそな演奏なのに、彼女の練習姿を見ていることは、楽しいと衛藤は思う。
 これと言って、感心させられる部分も、自分の参考になる部分もありはしないのに。
 何故か気にかかってしまうから、彼女の音楽は衛藤にとって理解不能なのだ。


「……なあ、香穂子」
 数曲を弾き終えて、香穂子は衛藤が座り込んでいた場所の隣に置いていた自分の荷物の中からペットボトルの飲料水を取り出して、水分補給を試みる。衛藤が呼び掛けると、キャップを捻る手を止めて、斜めに衛藤を見下ろした。
「何? 衛藤くん」
 屈託のない反応。思えば、衛藤は初対面の時から彼女に対しては、決して愛想のいい対応をしていないと思うのに、香穂子は衛藤に対して警戒心というものをまるで持っていない。それどころか、休日のたびにこうして衛藤がいる場所へにヴァイオリンを弾きにやって来る。騙されやすそうなやつだなと心配になるが、こういう無防備な部分も、衛藤が何かとこの日野香穂子という人間を気にかけてしまう原因なのだろう。
「アンタさ。……何でヴァイオリン弾いてるわけ?」
 彼女が通っている高校には、確かに音楽を専門に勉強する音楽科もあるが、彼女が所属しているのは音楽とは無縁の普通科だ。
 それなのに、放課後には学校で練習して、更に休日も、ヴァイオリンを抱えていろんな場所に赴いては、こうして熱心に練習している。
 音色だけを聴いていれば、他の実力者を押し退けて上に立つほどの技量はないし、そもそも音楽で身を立てるという意識も本人には全くなさそうなのに。
「何でって……そうだなあ。改めて聞かれると答えに困るんだけど」
 うーんと眉間に皺を寄せて、香穂子は悩む。だが、その悩みは数分も持続しない。
「結局は、楽しいから……かなあ?」
「……はあ?」
 今度は、衛藤が眉間に皺を寄せる番だった。思わず隣に立つ香穂子を振り仰ぐ。
「楽しいからって……そんだけ?」
「え?……うん!」
 満面の笑みで、香穂子は大きく頷く。
 はあ、と大きな溜息をついて衛藤が頭を抱えると、途端に香穂子は不安そうな顔で首を傾げた。
「何か、おかしい?」
「おかしいって言うかさ……まあ、アンタの音に野心みたいなものが何もない理由は分かったけど」
 衛藤が過去に出会って来た音楽の道を志すものは、誰もが遥か遠い上を目指していた。
 皆、そこを目指すのに必死で、形振り構ってはいなかった。だから衛藤はずっと、音楽に身を置く者はそんなふうに上を目指すものなのだと思って来た。
 上手くなりたい、認められたいと、必死で技量を磨くことこそが、当たり前のことだと思っていたのに。

「ううん、野心はちゃんとあるよ。ヴァイオリンを弾く以上は、ちゃんと上手く弾けるようになりたいもの」
 衛藤の言葉に、香穂子がふるふると首を横に振った。

 香穂子にもちゃんと、目指すものはある。
 こうなりたい、あんなふうに弾きたいという、いつかは辿り着きたい理想の音色がある。

「でもね、上手く弾くことよりも。……音楽が嫌いだったら私は何も出来ない。音楽が……ヴァイオリンを弾くことが、すごく好きで楽しい。その気持ちが私にとって一番必要な、ヴァイオリンを弾く理由なんだ」

 ヴァイオリンと出会わなかったら、香穂子の人生はひどくつまらないものになっていただろう。
 日常の単調な出来事の繰返しに飽き飽きしているのに、それを当たり前のものだと諦めて過ごす。……それは、ヴァイオリンに出逢う前の香穂子の姿だ。
 でも幸運にも、香穂子はヴァイオリンと……音楽と出会えた。
 楽しくて、心から夢中になれるものに出会えた。
 たとえ一生、上手く思う通りに弾けないのだとしても。
 抱く理想には、最後まで届かないのだとしても。
 今のこの気持ちを抱えたままでヴァイオリンを弾けるなら、きっと香穂子は、未来永劫ずっとヴァイオリンを続けていくことができるだろう。

「アンタって、ホントにさ……」
「子どもみたいだって言いたいんでしょ、どうせ。ホントにそうだから、もう、いいもん」
 呆れたように笑って衛藤が呟くと、少しだけ頬を膨らませて、香穂子が拗ねた。
(……純粋で、真直ぐなんだなって言いたかったんだけど……)
 香穂子が解釈した衛藤の言葉の意味は、少しだけ衛藤が言いたかったことと違っている気がしたけれど、そんなに違いもないし、まあいいかと衛藤は続く言葉を呑み込んだ。


「ねえ。そう言えば、衛藤くんは?」
 練習を終えてヴァイオリンを片付け、賑やかな人込みの中を二人で肩を並べて歩いていると、ふと思い付いたように香穂子が尋ねた。
「あ?」
「衛藤くんは、何でヴァイオリンやってるの?」
 真直ぐに衛藤を見上げて尋ねた香穂子の言葉に、衛藤は虚を突かれた。
 何を言おう、どんなふうに告げようと深く考える間もなく、するっと嘘偽りのない言葉が、唇からこぼれ落ちた。
「……誰にも、負けたくないから」

 完璧に。
 誰も追いつけないくらいに。
 圧倒的な実力で、自分という存在を世界中の誰もに認めさせたい。
 だから、そのための努力を衛藤は惜しまない。
 それは、今まで少しも揺らいだことのない、衛藤がヴァイオリンを弾くための理由だったのに。
 その理由を香穂子に伝えてしまった途端に。
 衛藤は何だか、自分がひどく子どもじみたことを言った気持ちになった。

「そっかあ。……何か、衛藤くんらしいね。そういうの」
 その香穂子の笑顔に含みなんかなかった。
 衛藤が何かを間違えたと感じたことまでも、香穂子が素直に受け止めて、あっさりとその理由を呑み込んでくれたから。

 ……何故だろう。
 何だか余計に、衛藤は居心地が悪くなってしまった。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.6.14 加筆修正:10.6】

恋愛要素が全くない話で申し訳ないのです。
それでも一応、この衛藤は香穂ちゃんを気にしてるので…(笑)
自信家俺様の衛藤くんが香穂ちゃんとの出会いで変わっていくのは楽しいです。
ここもお互いに振り回したり振り回されたりするカップリングですね(笑)

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