特に何をするでもなく、加地は誰もいない教室の自分の席に座ってそんな鮮やかな色の空を見つめていた。幼い頃から何度も繰り返し見ているはずの、どこにでもある夕暮れの風景が、ここ最近は何だかとても素晴らしい風景のように思える。
……その理由はひどく単純なものなのだと、既に加地自身には分かっている。
(小さな小さな、爪の先程のささやかな幸せのおかげだ)
微かな幸福一つで、自分が生きる世界の風景すら、簡単に極上のものに変わってしまうのだと。
加地は『彼女』に出逢ってから、初めて知った。
「あれ、加地くん。まだ帰ってなかったんだ?」
軽やかな明るい声。彼女が奏でるヴァイオリンの心地よさ、そのままの雰囲気を持つ声だ。
加地は机の上に頬杖を付いたまま、これ以上にないくらいの幸せな気持ちで、教室の入口に立つその人物に視線を向けた。
「日野さんこそ。……練習してたんじゃなかったの?」
加地の教室での隣人である日野香穂子が、数日後に教会で開かれるアンサンブルのミニコンサートのために、放課後や昼休みは一緒に参加するアンサンブルのメンバーと時間を惜しんで練習をしていることを加地は知っている。いつもは、香穂子は練習が終わると、そのまま帰宅してしまうから、この時間に彼女が教室に戻ってくるのは珍しいことだった。
「あ、うん。練習終わって帰るところだったんだけど、数学のテキストを机に入れっぱなしにしてたの思い出して、戻って来たんだ。私、明日当たるんだよね」
心底困ったように溜息を付く香穂子に、加地は思わず苦笑する。
加地の中で『日野香穂子』という人物はいつだってヴァイオリンとワンセットだ。加地にとっては、とにかくその音色の印象が強烈なものだから、改めて「数学のテキスト」だの「明日当たる」だの、まるで普通の女子高生みたいな台詞が彼女の声で紡がれると、加地は何となく違和感を抱いてしまう。……それは、加地が勝手に作り上げてしまった彼女の一面に他ならないけれど。
「勉強にコンサートの準備に……何かと忙しそうだね。日野さん」
そんな自分を内心自嘲しながら加地が呟くと、香穂子は加地の隣に並んでいる自分の机の中から、いそいそと数学のテキストを取り出して再び大仰に溜息を付いて天を仰いだ。
「そうなんだよー。本当にもう忙しくて、大変。学内コンクールの時はちょっとだけ勉強が疎かになっちゃっても「仕方ないな」って先生達も大目に見てくれてたんだけど、コンサートはまた事情が違うからなあ」
それは加地が知らない過去に、彼女に起こった出来事の話。
香穂子にしてみればきっと何気ない話題なのだろうけれど、そのことを知り得ない加地は少しだけ寂しさを感じてしまう。
表情をわずかに陰らせた加地に、自分の事で加地を心配をさせていると誤解したのか、香穂子が慌てて片手を振った。
「でも、まあ。自分で決めてやってることだからね」
大丈夫大丈夫、と、屈託なく香穂子が笑う。
その邪気のない笑顔につられるように、加地も小さく笑った。
(君を初めて目にした時は)
とても自分には手の届かない、遠い場所にいる存在だった。
……実際に、こうして彼女の生きる世界へと足を踏み入れてみて、加地が感じるその遠い距離感は、実は今でもあまり変化はしていない。
練習不足の拙い音すらも、それが彼女の音色ならば、まるで星みたいにきらきら輝いて、加地の精度のいい鼓膜を震わせる。
……自分では手が届かないと、何度も何度も彼女の音を聴くたびに改めて思い知らされて、叩きのめされるのに。
どうしても、加地は彼女に惹かれることを止められない。
(君が、気負わないから)
加地とは違う、加地が見ることの出来ない風景の中に生きている存在であるはずなのに。
彼女の屈託のなさは、時折彼女が加地のとても近い場所にいるような、錯覚を起こさせるから。
……そんなふうに、彼女が簡単に加地の場所まで降りて来てくれるから。
いつか、もっと近付けるんじゃないかって。
……勘違いを。
「加地くんは、まだ帰らないの?」
テキストをバッグの中へしまい込んだ日野が、よし、と一つ頷き、それから加地の方に視線を向けた。
「あ、うん。僕は……」
ふと、ここで「もう帰るよ」と言ってしまえば、彼女と同じ帰り道を歩けるのだと気が付いた。
それは、本当はものすごいチャンスだけれど、何だかまだ心の準備がと、妙に気が引けて、加地は小さく首を横に振った。
「僕はまだ、もう少しここにいるよ」
「……ふうん?」
少しだけ、不思議そうに首を傾げた日野は、それでもそれ以上は追求することはなく。
肩から下げたトートバッグと、もう片方の手に大切にヴァイオリンケースを握り締めて。
「……それじゃ、私は帰るね。加地くん、また明日!」
と、明るく笑って、片手をひらひらと振った。
いまだ縮まぬ、加地と彼女との距離。
少しでも近付きたい、同じ時間を過ごしたいと願って、転校までして彼女の生きる領域に足を踏み入れたけれど。
彼女の音を間近で聴くほど。
……彼女が生きる世界を目の当たりにするほど。
本当は、二人の距離は逆に離れて行くような気さえするのだけれど。
それでも、これまで何気なく目にしていた風景が、新しい景色に変わってしまうくらい。
……抱く不安を凌駕してしまうくらい。
加地というつまらない存在を拒むことがない香穂子という人間は、加地にとってひたすらに心地がいいもので。
「うん、日野さん。……また、明日」
この言葉が。
クラスメイト相手ならば、きっと当たり前に紡がれるのであろう、こんな些細な言葉が。
どれほど加地を幸せにするか、彼女は知らない。
遠くから見ていたあの頃には。
加地という人間が存在することすら彼女が知らなかったあの頃には。
決して交わされることがなかった、明日また逢えることを保証するその言葉。
『また、明日』と、未来を約束するその小さな一言が。
加地が生きる世界を、色鮮やかな美しい世界に変えることを。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.3.6 加筆修正:10.6】
「また明日逢えるんだね日野さあん!」……と、結構重い愛の話になるはずだったのに(笑)予想以上にさっぱり風味に出来上がってしまいました。
加地特有のサワヤカストーカー的な「そんな馬鹿な!」ってノリを書いてみたいんですけど、あれを突き抜けて書くのも難しいですね。ま、ヘタレであることは違いないが(笑)


