それでも前へ。

月森→日野

 季節はまだ初夏に踏み込んだくらいだけれど、天候が良ければ気温は否応なく上昇する。
 閉ざされた室内に熱を孕んで篭り、澱んでしまった湿っぽい空気を解放するために月森が窓を押し開くと、日野香穂子が裏庭を通りがかったところだった。ふとこちらを振り仰いだ香穂子と目線が合って、月森は小さな溜息を付く。
「……いつも神出鬼没だな、君は」
 学内コンクールが始まって以来、彼女は月森の演奏を参考にしたい、勉強をしたいと言っては、ずっと月森のヴァイオリンを追いかけていた。最初に月森が頑にそれを拒んで以来、それなりに遠慮する気持ちはあるのか、月森に気付かれないようにこっそりと身近に潜んでいる香穂子だが、それでも近くにいれば否応なく目が止まる。だから、こんなふうに月森が予想しない場所に彼女の姿があるということは、ここ最近は日常茶飯事になりつつある。
「うーん、今日はちょっと事情が違うんだけどね……」
 月森からぐさりと言われることには、いい加減慣れてきたらしい香穂子だが、今日は確かにその表情が違う。月森に何を言われようが、にこにこと屈託のない笑みで答える彼女なのに、今日の彼女は返事にも覇気がなく、気落ちしているということが一目瞭然だった。
「……どうかしたのか?」
 人の世話を焼くことが大の苦手な自分だが、それでも彼女がこんな表情をすることは珍しいから、放ってはおけなくて。月森は、気がついたら自ら彼女にそう尋ねていた。
「うん。……わざわざ隠すようなことじゃないっていうか、隠しても仕方ないっていうか、ぶっちゃけ、むしろ愚痴りたい気持ちだから、白状しちゃうけど」
 沈んだ声でぼそぼそと呟きながら、香穂子は盛大に溜息を付く。その様子に、怪訝そうに月森が眉をひそめると、香穂子がこれ、と自分の足下を指差した。
 その指先が示す先に月森が視線を落としてみると、香穂子は白地に赤いアクセントの入った体育の授業用のスニーカーを履いていた。通学用には別に学校指定の革靴があるから、制服姿の香穂子の足下の雰囲気だけが妙にそぐわない。
「隠されちゃった。革靴」
 呆れたように肩をすくめ、香穂子が意外なほどに冷静な声で、そう呟いた。


 靴から目を離したのは、ほんの数十分程度だ。
 本日最後の授業である体育を終え、着替えてシューズを履き替えようとロッカーを覗いたら、革靴が置いてあった靴箱の狭い空間がもぬけの空だった。
 貴重品は授業前に係が集めるから、基本、普通科のロッカーに鍵はない。やろうと思えば誰にでも靴を隠すくらいの芸当は出来るだろうが、まさか自分がこんな経験をするとは香穂子は思ってもみなかった。学内コンクールに参加して以後、確かに嫉妬や羨望から陰口を叩かれたり、嫌がらせめいたことも受けてきた。だけど元々平凡に目立たなく学生生活を送っていた香穂子は、自分がこんな仕打ちを受けることを全く想像出来なかったのである。
「もちろん、この靴で帰れなくはないんだけど、今日はどうにかなっても明日からがまた困るし。下校時間ぎりぎりまで探してみようかなって思ってるの。……万が一、隠した当人のロッカーなんかに入れてあったりしたら、一つ一つ開けていく訳にもいかないから、さすがにもうお手上げなんだけど」
「……それはないだろうな」
 香穂子の話を、どこか不愉快そうな表情で聞いていた月森は、軽く腕組みをして溜息をつく。そのきっぱりとした物言いに、香穂子が首を傾げた。
「どうして?」
「証拠になるからだ。後ろめたいことをしてしまったという自覚があればあるほど、その事実を自分に突き付ける物証は、側に置きたくはないはずだ」
「あ、そっか」
 月森の鋭い指摘に、感心したように香穂子が頷く。そして改めて表情を陰らせた。
「でも、校舎内で簡単に隠せそうかなって思える場所は、あらかた探してみたんだけどな。後はどこを探したらいいのやら……」
 途方に暮れた香穂子に、一つ息をついた月森が、次の瞬間、予想外の軽やかな動作で窓枠を乗り越え、裏庭の乾いた芝生の上に降り立った。意外な月森の行動に驚いた香穂子が、思わず目を見開く。
「ど、どうしたの……? 月森くん」
「俺に、一ケ所心当たりがある。……行ってみよう」


 裏庭を通り抜け、校舎の片隅の木々の陰になる位置に、小さな焼却炉がぽつんと取り残されている。環境問題やら何やらで、今ではもう使用されていない古い焼却炉なのだが、滅多に人の来ない校舎の片隅にあるために普段は人の目に止まることがないせいか、逆に壊されも取り除かれもせずに、こっそりと置きっぱなしにしてある。
 月森は迷わずに焼却炉前の段差を上がり、煤けた古い取っ手を握ると、勢い良くそれを引き開けた。二人でそっと覗き込んでみると、袋にも何も入っていないむき出しの女性物の革靴が、こっそりと放り込まれたらしいゴミの山の一番上に、無造作に乗せられていた。
「……これじゃないか?」
 月森が指先に左右の靴の踵部分を引っ掛けて、その革靴を香穂子の目の前に掲げると、おそるおそるそれを受け取った香穂子が、靴の中を覗いてサイズを確かめる。
「……うん。多分、これだと思う」
 香穂子はその場で履いていたシューズを脱いで、革靴に足を突っ込んでみる。癖のついた微妙な部分の柔らかさ。普段履いているものの馴染んだ感触との違和感はなかった。
「これだ。……よかったあ! ありがとう、月森くん」
 今度こそ、納得して呟き、香穂子は顔を輝かせて月森を振り仰ぐ。
「でも、すごい。ここにあるって良く分かったね。……まさか、月森くんが犯人、なんてことはないよね?」
 冗談めかして香穂子が首を傾げる。小さな溜息をついて首を横に振る月森が、背後の焼却炉を振り返った。
「そんなわけがないだろう。……昔、俺も同じことをやられたことがあるから、単に思い付いただけだ」
「……え?」
 驚いたように目を見開いて自分を見つめる香穂子に、月森は苦笑し、何でもないことのように言った。
「音楽という世界は、傍目に見るように美しい、優雅な世界ではない、ということだな」

 ……『音楽』という世界は、決して見た目通りの美しい、華やかな世界という面だけではなくて、その裏側に様々な人間の思惑が渦巻く。
 嫉妬や羨望や。怒りや憎しみ。
 実力では叶わないことを逆恨みする人間は、純粋に己の実力を磨き、越えようとする真摯さを持つ者ばかりではなく、目の前に立ち塞がる者には、無理矢理に足を引っ掛けて転ばせようとするような輩の方が多いくらいだ。
 それでも、自分はいい。
 この世界にはそんな醜い裏側があることも知っていて、全て覚悟の上でこの世界へと足を踏み入れた。
 自分だけはその醜さに染まることなく、ただ自分自身のヴァイオリンを極める覚悟で生きていた。
 だけど、彼女は違う。
 彼女は、数週間前までは、ヴァイオリンに触れたことすらない、こんな世界とは縁遠い存在だったのだ。
 足場の悪い場所で泥にまみれる覚悟が足りなくて、傷付いて、挫折していった純粋な人間を、月森は数多く知っている。
 ……おそらく、コンクールを続ければ続けるほど、音楽の裏側を知らない彼女は傷付く。
 どうしようもなくなる前に……傷が浅いうちに。
 こんな世界から抜け出してしまった方が、彼女の為だろうと思うのに。
「俺にはそれでも、そんな世界で生きていく覚悟があるが。……君はこんな目にあっても、コンクールを辞退しようとは思わないのか?」
「……月森くんが「辞退した方がいい」って言ってくれたのは、それが理由?」
「もちろん、中途半端な気持ちで参加されると迷惑だというのが一番の理由だ。……だが、君がいい加減な気持ちでコンクールに参加しているのではないことも、今はもう知っているから」
 妖精の気まぐれで、勝手に押し付けられたコンクールなのに。
 きっと、他の誰よりも、真直ぐな、素直な気持ちで、香穂子はコンクールに向き合っている。
 彼女に関わった数週間で、月森はそのことをよく理解してしまったから。

「……心配してくれて、ありがとう」
 ふわりと、花が綻ぶように、香穂子が笑う。
 その邪気のない笑顔が眩しくて、月森は目を細める。
「でもね、大丈夫。何を言われても、何をされても。私はこのコンクールを、最後までちゃんと頑張るの。辛くても、そうやって頑張ったことは私にとっては絶対無駄にはならないって、そう思ってるから」
 屈託のない笑顔は、強がりでも、建て前でもなく。
 本当に彼女がそう思っていることを示している。

 心無い他人に、無理矢理に足を引っ掛けて、否応なく転ばされて。
 彼女は前のめりに膝を崩し、手をついて、そうして這いつくばりながら。
 それでも前へ、真摯に進むんだろう。
 躓きも、大事な大事な一歩に変えて。
 迷いなく進んでいくのだろう。

 彼女のその前を見る姿勢こそが
 月森にとって、今一番大切に想う、とても眩しく映るものだから。
 月森も、また進むのだろう。
 彼女に置いていかれないように。
 彼女を置いていかないように。
 つかず離れずの距離で。
 ただ、ひたすらに前へ。


「……探し物が見つかったところで、練習室へ戻らないか? 君さえよければ、この後一緒に練習をしよう」
「え、ホントに? 助かるよ。この騒ぎで練習室の予約、取り損ねちゃって」

 空っぽの焼却炉を背にして、月森と香穂子は歩き出す。
 一歩一歩を踏み締めるように、ゆっくりと前へ。

 苦いもの、重いもの。
 そういう負の要素は。
 できるだけ背後へと置き去りにして。


 入口のドアに回るよりは窓から戻った方が近いため、練習室に辿り着いた月森は、またもや意外に軽やかな動作で窓枠を乗り越えて、室内に入っていった。
 窓越しに香穂子から受け取った彼女の荷物やヴァイオリンを室内に置くと、自分も窓を乗り越えようと構えていた香穂子に、窓から身を乗り出した月森が両腕を伸ばす。
「……え?」
 月森の意図が解らずに、きょとんと振り仰ぐ彼女に苦笑しながら。
 月森は強引に香穂子の両脇の下に両腕を差し入れて、軽々と彼女の華奢な身体を持ち上げた。
「つ、つ、つ、つ、月森くんっ!?」
 慌てた様子でぱたぱたと足をばたつかせる彼女を一瞬だけ抱きしめて。
 月森はゆっくりと練習室の床の上に、彼女の身体を下ろす。真っ赤になって、上目遣いに月森を見つめる彼女に、微笑んでみせる。
「……あまり無茶ばかりをしていると、それだけで疲れることもあるんだ。甘えられる場面では、遠慮なく俺に甘えていい。……もちろん、甘えてばかりでもいけないが」

 ……きっと、以前の自分なら、こんなことは言わなかった。
 誰かの力になりたいと思うことも。
 誰かを甘やかしたいと思うことも、自分にはなかったから。
 だけど自分以外に、自分を甘やかさない人間を見つけた時。
 懸命に前だけを見て、周りのものに頓着することなく、全力で突き進もうとする人間を見つけた時。
 それがとても『怖い』生き方なのだと月森は気付いた。
 一人で何もかもを背負おうとする姿は、確かに真摯で美しい生き方だとは思うけれど。
 全力でぶつかってしまうことで、粉々に砕け散ってしまいそうな危うさを孕んでいることを知ったから。

 息抜きや甘えることも、適当な量が必要だ。
 もちろん、匙加減は必要だけれど。
 壊れずに、行き止まらずに。
 確実に、前へと進んでいくために。

(だから……彼女にとっての『それ』が、俺であるならいい)

 彼女が、真直ぐに頑に全力で前へ進もうとする自分に、適度なブレーキを与えてくれるように。
 立ち止まる必要さを与えてくれるように。
 ぴんと糸を張り詰めて、全てに真正面から立ち向かおうとする彼女が。
 唯一、安らげる場所が。
 ……彼女を唯一、甘やかす存在が自分ならいい。


 そして、不器用な真直ぐさで、音楽という世界を生きていく自分たちは。
 時に傷付けあい、時に励ましあいながら。
 隣り合わせで前を見る。
 遥か彼方にある、同じ目的地を見る。

 躓いても、転んでも。
 その時、前のめりに踏み出した一歩が。
 それでも前へと、踏み出したその不格好な一歩が。
 目指す場所へと辿り着くために。

 確実に『進む』ための力になるように。




あとがきという名の言い訳 【加筆修正:2010.6】

最初に書き上げた時は恋話と銘打ちながらあまりに甘さの欠片もない作品だったので、ちょっとだけ甘さを追加してみました(笑)
渡瀬んちの香穂子は「猪突猛進」という性質を入れておいてあげたいので(笑)それをなだめる存在が月森ならいいなと思ってます。月森にとって香穂子がどんな存在かという話はよくやりますが、逆は頻度が少ない気がします。月森は視点からのものですけど、少しはそういうことが書けたかな。
お互いがお互いに甘やかしたがってるんだけど、それが自分の理想通りにできていない。そんな二人が私の理想です(笑)

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