黄昏の街を背に

月森×日野

 電車の窓越しに見える空が、黄昏の色に染まっている。
 視線の前方の景色が電車のスピードに合わせて流れていく。それを見るともなく眺めていて、月森の思考にほんのわずかな時間、空洞が生じた。それは黄昏の茜色の空に目を奪われ、耳に引っ掛けた高性能のヘッドフォンから流れて来る、微かな音量の優しい音楽に気を取られた瞬きの間の些末な意識の空白。そこを見計らったかのように月森の肩にゆっくりと預けられたぬくもりが、月森の意識に錯覚を起こさせた。

 それは、もう今では夢の中の出来事であったかのように思える。
 彼女が自分の隣に居た日の、遠い記憶。

 遠出をした帰りの電車の中で。
 はしゃぎ過ぎて疲れ果て、優しい電車の揺れに眠り込んだ彼女が、その揺れに任せて月森の身体に、その華奢な身体を預けて眠り続けた、あの幸せな時のぬくもり。

 月森は、はっと我に返る。
 反射的に自分の隣を見下ろすと、そこに座っていたのは、記憶の中の鮮やかな紅の色が強い、癖のある髪ではなくて、柔らかなブロンドの緩くウェーブのかかった長い髪の少女。預けられた身体も記憶にあるあの女性の姿よりも、幾分か小さい。
 月森にもたれかかった少女の、その母親らしきよく似た風貌の女性が、少女の向こう側から懸命に少女の身体を引き起こし、「ごめんなさいね」と現地の言葉で、苦笑して月森に告げた。
 「いいえ」と応じ、軽く瞬きをして、月森はもう一度目の前に広がる、流れていく車窓に映る景色を眺めた。
 茜色の風景。優しいオレンジに染まる空。
 ……そんなふうに、暖かな記憶の中には、いつだって彼女がいる。


 ヘッドフォンはどうにも鼓膜を酷使しそうな感じがして苦手なのだけれど、それ以上に長い移動の間、電車に揺られているその時に、珍しい東洋人を気にかける地元の人間達に、気さくに声をかけられてしまうことが苦手だ。そんな興味本位の世間話を避けるため、長時間公共交通機関で移動を余儀無くされる際には、ヘッドフォンで音楽を聴いている。自分の勉強に必要な演奏を聴いていることもあるが、無意識に選んでしまうのは、数カ月前、数年間音信不通だった香穂子から届けられた、とある音源だった。
 彼女のヴァイオリンの音色をメインに形作られる、月森の知らない音楽。親しみやすく、堅苦しくなく、彼女の音色に見合った優しさで、そしてどことなく気持ちを切なくさせる。……そんな音楽。
 辺りの喧噪にかき消されてしまいそうな微かな微かな音量の旋律が、世界と関わることが苦手な月森のことを、薄いヴェールで包んで隠すみたいに、心ばかりの境界線を周囲に引いてくれて、呼吸がしやすくしてくれる。……そんなふうに、月森は今でも、彼女の音色と、彼女との想い出とに守られて生きている。

 一方的に別れを告げ、故郷の地に彼女を置き去りにしてきた月森の罪悪感は、いまだ拭えることがなく、彼女への想いも一向に衰えることがない。
 何度かそんなふうに思い切ることの出来ない自分を、どうにかしなければいけないと考えたこともあるのだけれど、いつしかそういうふうに想いを『終わらせる』ことを考える自分自身の一切が、酷く無駄な努力をしているように思えてきた。
 ……それはきっと、彼女からこの曲が届いたあの日から。

 切なく、哀しく。
 それでも暖かく、甘く、優しいもの。
 この曲に込められているような、そんな複雑で、言葉では説明出来ない想いを。
 音と、共に。
 ……抱く。

 それはいつか必ず癒えると言う保証がない傷を、生乾きのまま放置して、かさぶたがその傷を覆うたびに引き剥がしていくような、ひどく無駄な意味のない堂々巡りのようにも思えるけれど。
 その傷を抱えたまま、未来まで引き連れていく。
 それはひどく不毛な生き方のように思えるけれど、選択肢の一つとして選べる道の中にきちんとあるのだと。
 この曲が、教えてくれているような気がした。

(俺は、不幸だろうか)
 幼い頃から抱き続けた夢を捨てられず、何よりも大切で、愛おしいと想っていたものすらも、置き去りにして、ここに来たこと。
 それなのに、自分で決めた別れを、思い切れずに引きずって、抱えたままで生きていること。
 置いてきたものを、『置いてきた』という根底から綺麗さっぱり忘れてしまえれば、自分が考えるよりもあっけなく、簡単に楽になれるのだろう。それが分かっていても、そう出来ない弱さで、自分は今、不幸だという位置付けになるのだろうか。

 ……愚問だ、と月森は苦笑する。
 本当に苦しいのなら。
 どうしても忘れたいのなら、それらを記憶の外へ放り出すことは容易い。
 生きる為に不必要な、抱えるのに手に余ることを簡単に忘れていく。
 人間とはそういう生き物だから。

 忘れられないのも。
 引きずって、抱き続けるのも。
 結局は月森自身が自らの意志で、忘れる安楽よりも、抱き続ける苦悩を選び取っているだけの話なのだ。



 目的の駅に電車が滑り込み、車体から降りる人の流れに乗って、月森は生温い空気が澱んでいるホームに踏み出す。月森の隣に座っていた母子も同じホームに降り立ち、月森とは逆の出口の方へ身体を向けた。
 背中を向ける前に、月森に向かって母親が申し訳なさそうに苦笑しながら会釈し、うたた寝から覚めた少女は母親に手を繋がれたまま月森を振り返り、笑顔で手を振った。
 ……本当は、こういう時の応対は苦手なことこの上ないのだけれど。
 微かな笑みを浮かべ、月森が軽く片手を挙げ、少女に応じる。少女は嬉しそうに何度も何度も手を振り、そしてまた、何事もなかったかのように母親を見上げ、談笑しながら月森の目の前から去っていった。

 自動改札に切符を呑み込ませ、駅の構内を出ると、街全体が暖かな黄昏の色に染められている。
 肩から提げたバッグの紐の位置を神経質に直し、利き手にヴァイオリンケースを抱え、月森は一斉に駅から吐き出される人の波の流れに乗って……それでも決して、自分の歩調を変えずに、黄昏の街へ踏み出していく。


 この街に、彼女はいない。
 だが、彼女と過ごした日々で得た沢山の幸福の欠片は、彼女がいないこの街にも、当たり前のように転がっている。

 それは、何気なく触れる人のぬくもりだったり。
 無条件に与えられる、明るい笑顔だったり。
 耳にひっかけたヘッドフォンから流れる、優しい音楽だったり。

 そうして、そんな忘れられない想い出の一つ一つが。
 一人、夢を追って生きる月森の存在を、今も支え続けてくれている。

(いつか、どこかでまた逢える日が来たら)
(そんなことを、君に話せるだろうか)

 月森が背にして歩く、この黄昏色に染まった街の風景も。
 二人で歩いた学校からの帰り道の風景と同じ、優しく暖かい色をしていて。

 この街で闘い続ける月森を支えてくれる、幸福の欠片の一つになるのだと。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.16】

オフライン本「キラキラの街」「I'LL BE」の間の話となっています。無印ベースで月森の留学を期に、一旦二人が別れている設定、というのを踏まえてもらえば、オフラインの作品を読んでいなくても問題ないかと思われます。
「キラキラの街」の後なので、月森は幾分か前向きモードになっているはず。
タイトルは、分かる人にはきっと、元ネタがはっきり分かるでしょう(笑)

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