つよがり

月森×日野

 すれ違いざま、どん、と強い調子で肩と肩がぶつかる。反動で、ぶつかられた側の腕に抱えていた楽譜が数枚、ばさばさっと派手な音を立てて床に散らばって落ちる。
「おー、悪いな」
 相手は謝罪の言葉を口にするが、にやにやと笑ったまま、当然の事ながら床に散らかった楽譜を拾い上げる気配もない。相手のそういう態度は慣れているから、月森は気にしない。小さな溜息をつきながら身を屈め、落ちた楽譜を拾い上げる。そんな月森を嘲笑うかのように、ぶつかった相手はまだふわりと空中に浮いて地に着かない楽譜の一枚を爪先で軽く蹴り飛ばす。
 相手が身に纏うのも月森と同じ音楽科の制服。自分の意志に関係なく、何かと他人の目に止まる場所にいる自分に対して、どちらかと言えば否定的な人間の方が多いことは知っているから、程度の低いささやかな嫌がらせにいちいち腹を立てる気はないが、同じ音楽を志す者として、この楽譜の扱い方はどうかと思う。さすがに月森がその眼差に険を含み、相手を睨み付けようと顔を上げたところで、横から現れた第三者の手が、目の前の彼が蹴り飛ばした楽譜をあっさりと拾い上げた。
「悪いと思ってるなら、拾うのを手伝うくらいするのが、礼儀だと思いますけど?」
 およそ嫌味な事を言うのがそぐわない朗らかな声が、はっきりと一言一言を発音して紡ぎ上げた正論を目の前の彼に突き付ける。その勢いに一瞬息を呑んだ相手は、「……うるせえよ」と捨て台詞を残し、そそくさと、足早にその場を去って行った。
「月森くんも、いつもは結構辛辣なことズバッと言っちゃう人なんだから、はっきり抗議すればいいのに」
 はい、と苦笑しながら楽譜を差し出したのは、香穂子だった。
「……言うだけ無駄だと分かっているから、いちいち事を荒立てたくないだけだ。俺が何か反応すれば、それが面白がられるだけだろう」
「うーん、確かにそれも一理あるけど」
 香穂子から楽譜を受け取り、全て揃っていることを確認してまた小脇に抱え、月森は練習室へと爪先を向ける。歩き出した月森の後を、香穂子が追いかけた。
「それでもあんなふうに、嫌がらせみたいなことされて。別に月森くんが何か間違ったことしてる訳じゃないのに、悔しくない?」
 後ろから追い付いて、下から伺うように月森の顔を覗き込む香穂子が、そんなことを尋ねる。
 意外なことを質問されて、驚いたように微かに目を見張った月森は、やがて小さな溜息と共に苦笑する。
「悔しいとか、そんなことをいちいち気に止めたことはなかったな……」

 一流の音楽家達に囲まれた、ヴァイオリンを生きる糧とするには恵まれた生活環境。
 校内随一と謳われる技量は、自分ではまだ及第点には届かないと思ってはいても、周囲に評価されるに足る努力は惜しまなかったと自負している。
 だが世の中、正しいことを行っていれば全てが認められるわけではない。
 何が人の不快感を刺激するのか分からない。月森がただ真摯に、懸命にヴァイオリンに向き合っているだけなのだとしたって、元から人に愛想を振りまくような社交的な気質ではないのだから、その姿勢そのものを疎ましく思われることも、致し方ないことで。
 ……仕方ないと納得しなければ、どうにもならないことなのだと月森は知っている。
 月森の内状なんて、誰も知らない。分からない。
 どれだけ表向きには順調に成長しているように見える月森のヴァイオリンも、壁にぶつかることや、苦悩につまずくことが皆無なわけではない。
 きっと、誰もがそうであるように、月森は自分のヴァイオリンに足りないものを模索し、追求し、その過程で沢山の葛藤を抱く。
 どんなに環境や才能に恵まれていると周囲に評されていても。
 音楽の、ヴァイオリンの前に立つ時はただの一奏者でしかない。
 ……きっと、そんな根本的なことを理解してくれる人は、ほんのわずかしかいない。
 月森だって、血の通わない無機質な人間ではないから。
 他人に理解されないこと、疎まれてしまうことに傷付かないわけではない。
 だが、先程の男子生徒の行動が、同じように音楽を志す者として、月森にはおよそ理解が出来ないのと同じように。
 あの男子生徒の目には、『才能と環境に恵まれたエリート』だとしか映っていないこの自分の苦悩を、彼は一生理解することはないだろう。

「あのねえ。私だって、誰も彼もに月森くんの苦しいことや悩みとかを吹聴して回って、同情買って来いって言ってるわけじゃないんだよ」
 むう、と頬を膨らませて拗ねる香穂子が、月森の前方に回り込んで立ち止まり、腰に片手を当てて、指先を月森の鼻先に突き付ける。
「酷いことされたり、言われたりした時に、何にも感じない振りして強がって、私の知らないところで傷付かないでって言ってるの! 月森くんにそういうこと我慢させたら、私が月森くんの傍にいる、意味がないでしょう?」

 すぐ目の前に、香穂子の小さな指先が在って。
 そこからの延長線、華奢な腕を伸ばした香穂子の顔は、照れくささの為なのか、もっと別の理由なのか。
 柔らかな桜色に染まって、大きな目が涙で潤んでいる。

(……無理をして、強がっていたつもりはない)
(だが、『あるがまま』でいたわけではないことも、真実だろう)

 自分が感じる孤独など、本当の意味で『孤独』な人間から見れば、生易しい甘えの感情でしかなくて。
 それでも確かに、本当の自分を理解されない寂しさは、月森の中に存在していて。
 誰にも気付かれないよう、見せないように奥底に隠してきた。
 見つけられてしまえば、それで誰かが月森に理解の手を差し伸べてくれるわけではなく、それを絶好の付け入る隙だと考える輩を喜ばせるだけの汚点でしかないと知っていたから。
 でも、今は。
 月森には、香穂子がいる。
 ……月森の痛みを、苦しみを、悩みを。
 そして、寂しさを。
 理解する為に、手を伸ばしてくれる存在が。

「……『つよがり』じゃない。それはもう、本当に『嘘』じゃないんだ」
 香穂子の指先にそっと触れ。
 月森は掌で、大事に大事に彼女の手を包み込む。

 他の誰かに、どんなに理不尽な態度をされたとしても。
 どれだけの寂しさを、苦悩を抱えていたとしても。
 それを『大丈夫』だと香穂子に言える気持ちに、嘘はない。

「……君が、いるから」

 微笑む月森が、香穂子の手を引き寄せて。
 至近距離で見つめあって、こつんと額と額を合わせて。
 少しだけ、疑うように月森の表情を上目遣いに見つめた香穂子が、その月森の微笑みに嘘がないことを読み取って。
 嬉しそうに、笑った。


 長い人生を生きる中で。
 理不尽を一度も感じないまま生きていくことの方がずっと稀で。
 気を張って、取り繕って、どうにか外側だけを強く見えるものでコーティングして、その理不尽を乗り越えていかなければならない事の方が、ずっと多い。

 だけど、この世にたった一人だけ。
 水面下の見えない場所で必死に水を掻いて進んでいる自分の事を、理解してくれる人がいるのなら。

 そんな存在の前でだけは。
 『つよがり』のコーティングを取り払って。
 あるがままの自分で、自由に呼吸をすることができるのだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.12.18】

このお題を考えたのは渡瀬ですから、当然のことながら、これの元ネタはあの曲なんだよねえ……
こう……ひねりも何もない話ですけど、渡瀬らしい話だなあと読み返してみても思います。

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