Nostalgia

月森×日野

 駅前広場の歩道でタクシーを降りると、運転手が怪訝な顔で料金を受け取った。
 駅から駅へと乗り継いだだけなのだから、不審がられても仕方がないと、苦笑混じりに月森は、ドアを閉めてまた交通量の多い道路へ滑り込んでいく車体を見送った。
 駅でタクシーを拾い、乗り込んだ時にはそのまま実家の玄関前へ乗り付けてもらうつもりだった。だが車窓の外の風景が、遠い昔には当たり前だった懐かしい風景に変わった時、妙な郷愁に心が埋め尽くされて、思わず視界の端に見えた賑やかな駅前通りの道端に車を停めるよう、運転手に声をかけていた。
(……少しだけ、変わっただろうか)
 月森がここで生活をしていた頃、自分を取り巻く風景は劇的に変化をすることはなかった。軒並み続く店や家の一つが取り壊されて、新しく変わって。新しくなったなと思ううちに、いつしかそれも馴染んで、目新しいものでなくなっていく。……その、繰り返し。
 だが、四年以上見る事のなかった懐かしい故郷の風景は、記憶の中にあるものとは幾分違って見えている。
 建物と道路のバランス、そういうものが根本的に変わっている訳ではないから、やはり自分がここにいた頃にもあったはずの小さな変化が積もりに積もって、意外なほどの大きな変化として自分に故郷の風景を見せているのだろうと思う。

 月森は、ゆっくりと歩き出す。
 賑やかな駅前通りから、交差点を抜け、静かな住宅街の方へ。
 幼い頃から暮らしていた、あの洋館へ向けて。

(……不思議だな)
 少しずつ、時折思い出したように変わる風景を、ここにいた頃はそれほど気に止めたことがなかった。
 店が新しくなろうと、古い家屋が更地になろうと、自分にとってそれは大した問題ではなかったから。
 学校とヴァイオリン教室と。
 時折、工房や楽器屋、更には頻繁にコンサートが行われるホールまで。
 月森が生活をする上で必要になるのは、両手の指で数えて足りるほどの限られた場所。
 そこに、月森が困るような変化が何も訪れないのであれば、幾ら周りが時間の波の中で変化していこうとも、月森の生活も、生きる世界も、何も変わることがなかった。
 だから、幼い頃から夢見続けていたように、いつか遠い異国の地でヴァイオリンを学ぶためにこの地を巣立っていったとしても。
 きっと自分には、どんな感慨も湧かないのだろうと、漠然と思っていた。

 だが、現在の自分は。
 どこがどうとは言えないのに、明らかにどこかが変わってしまった四年ぶりの故郷の風景を。
 心の何処かで確かに、懐かしんで、寂しがっている。

 駅前通りから、自分の暮らす洋館まで、ゆっくりと歩きながら、風景を眺めてみる。
 ヴァイオリンに関連しない、軒並み続く店鋪や家屋。
 住宅街に続く最初の角の家には、生後間もない仔犬といつもその犬と楽しそうに散歩に出かけていた小学生の男の子がいたけれど、表札は記憶の中のものとは別の姓に変わっていた。
 アジア風の物珍しい雑貨が陳列されていた薄暗い小さなお店は、周りの古びた家屋ごと取り壊されて、綺麗にアスファルトに均された駐車場の向こうにコンビニが出来ている。
 自販機の陰に隠れて、営業しているかどうか分からない古びたタバコ屋は、有刺鉄線に囲まれた空き地になっていた。

 ……これらは、ヴァイオリンを糧にして生きる月森の人生に、必要とされなかった様々なもの。
 月森自身が積極的に関わろうとしなかったから、これらの風景は自分というものを作り上げるのに有益な協力してくれるはずもなく、ただ月森の人生をすれ違って、通り過ぎていっただけのものだ。
 それでも、今の自分は。
 そういう無関係であったはずのものを、記憶の底から拾い出し、一つ一つをじっくりと確かめて、噛み締める。

 自分が、遠い異国の地でがむしゃらに夢を追ううちに。
 確かに過ぎ去っていってしまった時間のことを。

 それでも、あの頃の自分なら。
 こんな面倒で、無意味のように思える作業をすることはなかっただろう。
 それをあえてこうして、拾い上げてみる気になったのは。



「……あれ? 蓮」
 夕暮れの薄闇の中、街灯が瞬き始めた道の上で、不意に聞き慣れた声が響く。
 視線を上げると、そこには大きなトートバック一杯の荷物を抱えた香穂子が立っている。
「どうしたの? 今日は、まだおうちに残ってる必要なもの取りに行くんじゃなかったの?」
 そういう香穂子も、また少し実家から離れた場所に新居を構えてしまった娘を心配して、日用品だの食料品だのを用意してくれた母の呼び出しに応じて、実家までそれらを取りに行った帰りだった。
「ああ、タクシーで真直ぐ家に戻るつもりだったんだが、駅前広場まで着いたら、どうしてもそこから家まで歩きたくなってしまって」
「へえ。蓮でもそういうことがあるんだね。珍しい」
 からかうように笑う香穂子に、月森は片手を伸ばす。
「俺が持とう」
「え? でもお母さんが張り切ってお野菜とか入れちゃってるから、結構重いよ」
「だから、俺が持つんだろう?」
 苦笑する月森に、そっか、と頷きながら香穂子が肩に下げていたバッグを下ろし、月森に差し出す。香穂子より当然軽々と、月森がそれを肩に引っ掛けた。
「よかったら、俺の家まで付き合ってくれないか。そして、マンションまで一緒に帰ろう」
「うん。どっちにしろ、御挨拶に行くつもりだったの。お義母さん、今ツアーから帰ってきてるんでしょう?」

 他愛無い話をしながら。
 懐かしい家まで、二人で肩を並べて歩いていく。
 夕暮れの薄闇を照らす街灯で、伸びていく二人分の長い影。


 住宅街に続く最初の角の家に住む小学生の男の子が、リードに繋いだ仔犬を連れて散歩に走り出していくのを、羨ましいと笑顔で見送っていたのも。
 アジア風の物珍しい雑貨が陳列されていた薄暗い小さなお店の表に並べられたアクセサリーを、こういうのも、可愛いよねと楽しげに見つめていたのも。
 自販機の陰に隠れて、営業しているかどうか分からない古びたタバコ屋は、昔は駄菓子屋もやっていたんだよ、と、店の奥のお婆ちゃんに明るく声をかけていたのも。
 月森の隣にいつもいた、香穂子だった。

 ヴァイオリンを糧にして生きていた月森が、積極的には関わろうとしていなかった。
 いつかは否応なく離れていくと分かっていた、懐かしい故郷の風景。
 きっと、彼女に出逢わなかったら。
 ……いつか必ず変わっていくものと分かっていて、それでも躊躇せずに触れるために手を伸ばしていた彼女と、共に過ごしていなかったら。
 今、二人で歩くこの風景に、やはり月森は何の感慨も抱かなかっただろう。


 ここは、彼女と一番多感な時期を過ごした街だから。
 自分一人では拾えずに、作ることが出来なかった沢山の想い出を。
 彼女と共に作って、拾い上げてきた場所だから。

 その全てを、愛おしんで懐かしむ。
 胸に満たされる、ノスタルジア。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.1.8】

自分の生活感満載だなーと思いつつ書いていた話(笑)
渡瀬も高校進学時に引っ越しをしましたので、今は幼い頃暮らしてた場所とはちょっと違うところで生活していますが、たまにその付近を通るといろんなものが変化しててびっくりします。
なんつっても昔の家の近辺は道が狭い。免許取りたての頃にあの辺に住んでなくてよかった!(何の話だ)

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