今日は朝から天気も良く、気温も上昇傾向にあるから、校舎内のありとあらゆる場所の窓が開け放してあって、沢山の種類の音が辺りには満ち溢れている。
そんなふうに、いろんな音の洪水の中に混じり込んでいても。
『あの』旋律だけは、確実に志水の耳に届くから。
素直で、真直ぐで。
穢れなく、曇りなく澄んで。
空の高い場所まで、一直線に突き抜けていくような音色。
その音の不思議な魅力に気付いた時には、志水はただその音を聴いているだけで良かった。
例えばそれが、他の喧噪に呆気無く混じり込んでしまうような微かな音色であっても。
その音は、他の誰にも出せない音だから、志水にはきちんと聴き分けられる。
だから、それだけでよかったのに。
その音が、志水が生きるこの世界に存在する。
……ただ、それだけで。
誰もいない廊下に立ち尽くして、無造作に積み上がっていく沢山の音の層の中に、志水は『あの』音色を探す。
(そう……探さなきゃ)
理論的なものではなく本能的な部分で、ふと志水は考える。
探さなきゃ。
見つけなきゃ。
『それ』がこの世界にあることが確かめられなければ。
僕は、呼吸すらも上手く出来なくなってしまう。
学院の敷地内に溢れる沢山の音色。
様々な種類の楽器が奏でる、異なった様々な楽曲の旋律。
そこに、更に重なり合うような沢山の人の声。
無機物と有機物の発する雑音が複雑に混じり合って、志水が探すものの在り処を、余計に辿りにくくする。
初めはのんびりと程よく磨かれた廊下を歩いていた足が、徐々に早足になり、そして更に駆け足になる。
いろんな場所を通り抜けて、彷徨って。
雑踏の中に紛れ込む、きらきらと輝くたった一つの旋律を追いかけて、志水は走る。
そうして彷徨っているうちに、沢山の顔とすれ違った。
見知った顔の人達は、慌ただしい自分の様子に、一様に驚いた顔をする。
でも、志水は構わない。
他の誰かに、自分がどう見られているかなんて、志水にとっては初めから些末事だ。
ただ、自分の音楽にとって必要なものを見つけたい。
……自分にとって音楽は自分の全てだから、それは回り回って結局は志水自身にとって必要なものになるのだけれど。
今は、そんな理屈すらもどうでもよくて。
見つけたいものを見つける為に。
志水はその見知った顔……彼女と自分の、両方を知る者達、一人一人に問いかける。
「あの……日野先輩を、見かけませんでしたか?」
いつでも奔放に学院中を走り回っているという印象の強い、志水の一つ年上の先輩は、この日も例外なくいろんな場所で出没していて。
知り合いの「エントランスで見かけたよ」「音楽室にいたけどな」という言葉に振り回されて、その一つ一つを丁寧に辿るのに、志水はどうしてもあの姿を見つけられない。
最初に、志水の心を惹き付けた『あの』旋律は。
彼女を探し続ける今も喧噪の中に紛れ込んでいて、確かに志水の耳に届くのに。
(最初は……あの音色があればよかったのに)
いつからだろう。
いつからこんなふうに、変わってしまったんだろう。
僕の音楽にとって。
……僕に、とって。
必要となるものは。
いつから、あの旋律『だけ』ではなくなってしまったんだろう。
屋上へ続く階段から降りてきた、おそらくは本日、最後に会う顔見知りに、志水は今日何度も何度も繰り返した質問をぶつけてみる。その人物は志水のそんな勢いにまず驚いて、それから戸惑いがちに一つ瞬きをした後に、ふと視線を階段の上に向けて教えてくれた。
「……たった今、屋上で弾いているのを見かけたが」
ありがとうございます、と丁寧に言って、ぺこんと志水は頭を下げる。
後はもう、その人物の傍らをすり抜けて、脇目も振らずに一気に階段を駆け上がるそんな自分の背中を、また「珍しいものを見た」という驚愕の視線が見送ることも知っていたけれど。
今の志水の心の中にあるものは。
(ああ、やっと見つけられる)
……ただ、その事実だけで。
階段を昇る自分の足音に混じり、あのヴァイオリンの音色が色濃く変わっていく。
不思議と、先程まであんなに煩わしく思っていた雑音が次第に遠ざかって、聴こえなくなっていく。
もう、志水の耳に届くのは、あの音色だけ。
だけど、それだけじゃ足りない。
……あの音色だけじゃもう、自分の心は満たされない。
屋上の重いドアを押し開くと、途端に溢れる柔らかなヴァイオリンの音色。
人気のないその場所には、ただその音色だけが満ちていて、志水が辺りをきょろきょろと見渡してみても、まだ自分が探すものは見当たらない。
だから、不安になる。
確かに、志水が惹かれる音色はそこに充分に存在しているのに。
それなのに、まだ見つからない探し物。
「日野、先輩」
ぽつりと名を呼んだ。
だが微かなその声は、風の音と辺りを満たすヴァイオリンの音色にかき消されて、思うようには響かない。
だから、志水は思わず大声で名を呼んだ。
「日野先輩……!」
その時、辺りを満たしていたヴァイオリンの音色がぴたりと中途半端な場所で途切れる。
まだ先へ続くはずだった旋律は、途切れてしまって。
ああ、せめてこの曲が終わるまでは待っていれば良かったのにと。
頭のどこか片隅で、思ったりもするのだけれど。
でも、確かめられなければ。
あの人が、今ここにいることを実感出来なければ。
もう、呼吸さえ上手く出来ないような気がしているから。
「……志水くん?」
あのヴァイオリンと同じ『音色』。
柔らかな、少し驚いたような声が志水の名を呼んで。
そして屋上の段差の陰、ちょうどドアから死角になる位置から、日野香穂子がひょっこり顔を覗かせた。
「……先輩」
ああ、よかった。
ここにあった。
僕が探し続けたもの。
……見つからなかった、探し物。
「……ごめんなさい、邪魔をしてしまいました」
香穂子が肩から離したヴァイオリンに、ようやく自分が彼女の演奏を中断させてしまった事実をはっきりと自覚し、志水は表情を陰らせる。だが、香穂子はそんな志水と自分の片手に握ったヴァイオリンを見比べた後、屈託なく笑って言った。
「大丈夫だよ。志水くんが来なくても、ちょうど休憩にしようって思ってたところだし。……それより志水くん、もしかしてずっと私の事探してたの? ごめんね、私全然落ち着きがなくって」
香穂子は、今日の練習室の予約を取ることが出来なかった。仕方なく居心地のいい練習場所を探して校内を歩き回って、様々な場所で弾いては移動を繰り返し、最終的にこの場所に落ち着いたのだ。
「何か、用事でもあった?」
首を傾げて香穂子が志水に尋ねる。
「特に、用事、というわけでは、ないんですけど……」
ヴァイオリンの音色はきちんとこの耳に届くのに。
それを弾く人物が目の前にいないことが、ただ寂しくて。
何だか胸が痛くて、息苦しくて。
だから、香穂子を見つけたかった。
どうせヴァイオリンを弾くのなら、出来ることならこの自分の目の前で弾いていて欲しかった。
ただ、自分の視界の中に存在していて欲しかった。
……志水の願いは、たったそれだけのことだった。
「そうですね。……ただ、話がしたかったんです。……先輩と」
「……うん」
彼女が、志水の言葉をどう捉えたのかは分からない。
だが香穂子は、志水の発言のその理由を、無理に問い質そうとはしなかった。香穂子はただ微笑んで、小さく頷いただけだった。
「……志水くん、甘いの嫌いじゃないよね?」
唐突に、香穂子が尋ねた。傍らのコンクリートの底面に置きっぱなしにしていた荷物をごそごそと漁る。
……はい、と訳が分からないまま志水が答えると、香穂子は荷物の中から取り出した小さな紙袋を、ちょっとだけ誇らしげに志水の目の前に掲げてみせた。
「休憩のお供にと思って、今日はクッキー持ってきたんだ。よかったら一緒に食べようよ」
そして香穂子は、とても綺麗に志水に向かって微笑む。
「……二人で、話しながら」
……志水を否応なく惹き付ける、優しくて、真直ぐな、香穂子しか生み出せない、香穂子だけの音色。
あのヴァイオリンの音色が志水の近くにあれば……最初は本当にそれだけでよかったのに。
いつから変わったんだろう。
どうして、それだけじゃ満たされなくなってしまったんだろう。
ヴァイオリンの音色だけでは足りない。それを生み出す人物が、志水の前にいてくれなければ。
苦しくて、切なくて。
呼吸すら、上手く出来なくて。
それは、志水が今までに一度も抱いたことのない感情だったから。
正体が分からなかったんだ。
そして今ここに。……志水のすぐ側に香穂子の存在がある。
あのヴァイオリンの音色はもう途絶えてしまっているのに、それでも志水の心は確かに満たされている。
志水の前で香穂子が笑っていて。ヴァイオリンの代わりに、優しくて柔らかな声が言葉を紡いで。
……それだけで、志水は幸せになる。
見つからなかった探し物。
それは、迷っていた……見失っていた自分の心。
(そうだ。……こんなところに、あったんだ)
それは日野香穂子という存在の中に。
(やっと、見つけた)
ようやく探し当てた自分の心の在り処に。
志水は満足して、空を仰いで微笑んだ。
あとがきという名の言い訳 【加筆修正:2010.6】
やたら行動的に動いてて、参加者達に驚かれる志水が書きたかった!
志水でこれを書こうと、お題を最初から狙ってたりしました。出来はともかく、書きたいことが書けて私的に満足。


